『誰がウソをついているのか』


森永卓郎、『増税も改革も必要ない! 誰がウソをついているのか』、ビジネス社

植草一秀容疑者が本当に嵌められたのならこの人にもどでかいスキャンダルが持ち上がってなきゃおかしいモリタク氏の新著。
タイトルは陰謀論的な臭いがしてどうも…。実際、「誰がウソをついているのか」という問いはあまり生産的でないと思う。だって、著者のモリタク氏は売れっ子コメンテーターの一人で、この新著もちゃんと書店の新刊コーナーに並んでるわけですよ(日曜日に浜田寿美夫の新刊が出たことを新聞広告で知り、それから毎日書店に通ってるけどまだ手に入らないよ!)。だから本を読む人間であれ読まない人間であれモリタク氏の持論にふれる機会はあるわけで、むしろ一体なにが「アンチ小泉・竹中路線」の主張の理解を阻んでいるのか、が問題でしょう。このエントリとも関連してますが、「経済学をちゃんと勉強していない左翼」である私からからみれば構造改革派とリフレ派の主張のどちらかが「わかりやすい」なんてことはまったくない。わからんところ(まあ、テクニカルなところですな)は両方わかんないし、わかるところは両方わかるわけである。それは誰にとっても同じであるはずだ。にもかかわらず、小泉路線によって割を食っているはずの人々までそれを支持してしまうのはなぜか。

モリタク氏も実はこの点に関して一つの見解を提示している。少し長くなるが引用してみよう(27-28頁)。

 それでは、構造改革派が格差を拡大しようとする本音は何なのか。私は次のように考えている。
 いまから二〇年前、プラザ合意による円高で日本人の平均所得は世界で一番高くなった。私は当時経済企画庁で働いていたが、そのとき盛んに議論されていたのが、なぜ日本の所得が世界一になったのに、自分たちは幸せを感じられないのかということだった。そして、その議論のなかから、一つの結論が出てきたのだと思う。それは、「自分たちが幸せになれないのは、世の中全体が豊かになったからだ。自分たちだけが豊かになり、他の人たちが貧乏になっていけば、王様のような暮らしができるはずだ」というものだ。
 構造改革派、あるいは新自由主義を標榜する人たちは、基本的に競争主義かつタカ派だ。それに対抗する勢力は、平等主義かつハト派だ。競争主義のハト派とか、平等主義のハト派〔原文ママ。明らかに「平等主義のタカ派」の間違いだろう〕というのは、ほとんどいない。
 その理由は、他人の痛みを感じるかどうかが一番のポイントなのだ。新自由主義者は自分あるいは自分の近親者だけが幸せになればよいと考えている。だから、自分たち以外の国民がどれだけ貧困にあえいでも関係がない。むしろ、そうなればなるほど、彼らにとっては幸せなのだ。なぜなら、生活に苦しむ低賃金層を安い価格で自らの使用人として使えるようになるからだ。

なんぼなんでも「自分たちだけが豊かになり、他の人たちが貧乏になっていけば、王様のような暮らしができるはずだ」という発想が明示的に共有され、目標とされたとは思えない。当時「なぜ日本の所得が世界一になったのに、自分たちは幸せを感じられないのか」という問いに対して与えられていたポピュラーな回答は、「日本人は働きすぎであり、かつ働き方が画一的すぎるからだ」というものだったと思う。そうした背景があったからこそ、誕生当時の「フリーター」という語は必ずしも否定的ではない、むしろ肯定的なカテゴリーとして受けとめられたのだ。それこそ雇用の不安定化を受けいれさせるための陰謀だったのだ! と言われたらどうしよう…(笑)
「他人の痛みを感じるかどうかが一番のポイントなのだ」というくだりには左翼としては「その通り!」と言いたいところではあるが、1)右派の主観的現実に反する、2)社会科学的な観点からみたときに妥当性に疑問がある、という二つの理由でやはりこう言いたい。「他者の痛みを感じるかどうか」よりも「誰を他者と感じるかどうか」がポイントなのだ、と。
事実問題として(経済的)競争主義と(軍事的)タカ派がしばしば親和的であり、(経済的)平等主義と(軍事的)ハト派が親和的だということは相当程度あたっているわけだけれど、例えば戦後日本の「平等主義的」な経済運営が多く戦前の総動員体制に起源をもっていたことだとか、共産党だって一時は武力闘争路線をとっていたことを考えれば、「競争主義/平等主義」と「タカ派/ハト派」をつなぐ別のパラメーターがあることは予測できる。また、「競争主義」が好きな「タカ派」も文脈次第では「他者の痛み」を感じるわけである。そう、通勤途中に見かけるホームレスにはまったく共感しないけど、A級戦犯には共感する、とか「会ったこともない犯罪被害者(遺族)」には共感する、といったぐあいに。

平等主義者は道徳的で競争主義者はそうでない、という主張は左派には甘美に響くが、右派は右派で自分たちこそが道徳的だと信じているわけである。「道徳的である」という自己意識に関して客観的な妥当性を問うてもあまり意味がないのであって、ここはやはりジョージ・レイコフの「モラル・システム論」の出番であろう。主観的には右派も左派も同じように道徳的なのであり、また「道徳的であるということはどういうことか」を構成する諸要素についても基本的には違いがない。しかしその諸要素間の優先順位が異なるだけで、全くちがう判断を導くことができるのである(例えばタカ派は「共に戦う者=われわれ」と考え、ハト派は「攻撃を受ける者=われわれ」と考える傾向がある、といったぐあいに)。

なお、本書は書き下ろしではなく既発表の原稿を集めたもののようである。「ようである」というのは、どこにもその旨記されていないからだが、bewaadさんが2月17日付のエントリで紹介しているモリタク氏の議論が第三章の内容(および表現)と重なっているからである。ということは他の章もそうかな、と。

Posted: 水 - 10 月 18, 2006 at 07:42 午後          

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