『天皇の軍隊と南京事件』


吉田裕、『天皇の軍隊と南京事件 もうひとつの日中戦争史』、青木書店

ネット上の南京事件否定論者がせめて秦郁彦の『南京事件』くらい読んでくれたらなぁ…というのが青狐さんとか私なんかがこのところ思うところなのだが、新書やブックレットによる南京事件概説書は価格も安いし読むのにかかる時間も短くてすむ、というメリットはあるものの、フォーマットの関係で記述が簡略にならざるを得ないところがある。本書は1986年出版で現在売られているのは1998年に出た「新装版」。内容的な増補などはおこなわれていないのでここ20年ほどで見つかった史料や議論の進展が反映されていない、という難点はあるものの、新書では不可能な記述の厚みがある。特に上海戦、上海からの追撃戦について詳しい記述があるのは参考になる。
タイトルからわかる通り、旧日本軍の体質、構造との関わりで南京事件を扱っている。一部の例外を除いて日本側の資料(戦闘詳報、陣中日誌、日記、回想録等)に依拠しているのはこうした狙いにもよるのだろう。

以下、最近書いたエントリとの関連で「軍紀」にまつわる点を中心に、印象に残るところを紹介する。
上海派遣軍、第十軍の軍紀の弛緩ぶりについては旧軍関係者自身による様々な証言、文書が残されているのだが、その原因として指摘されているのは
・戦争目的の曖昧さ
・予備役、後備役兵が多く、また(無謀な作戦のためもあり)損害が増えたことによる戦意の低下
・当初の戦争目的を超えた作戦となり、「上海で勝てば国に帰ることができる」という兵士たちの期待が裏切られたこと
・日本軍に蔓延していた中国蔑視
・憲兵の不足
・兵士の自発性に期待せず強圧的な管理・監視によって軍紀を維持しようとする体質
などである。日本軍が日中戦争を「支那事変」と呼んでいたことはよく知られているが、その理由の一つに、陸海軍自身も大義名分に欠ける戦いであることを認識していたことがある。例えば11月8日づけの陸軍省の極秘文書は「内外人ヲシテ首肯セシムルニ足ルベキ戦争目的ノ捕捉頗ル困難」としている(30ページ)。陸軍省でもどうやって正当化してよいか困っている戦争に、下級兵士が意義を見いだせるはずはない。
また軍紀の弛緩ぶりについて、興味深い証言があった。日中戦争の初期に、朝鮮半島経由で華北に向かった部隊に関して「通過部隊ノ軍紀風紀ハ厳粛トハ認メ難シ」とし、服装や態度がだらしない、命令を待たずに下車したり命令があってもなかなか乗車しなかったりする、上官に敬礼しないものが大部分…としている。別の史料によれば、民家に分宿した際「舎主(女)ニ対シ情交ヲ迫リタルモノ」や、夜中に寝ている舎主(女)に酒肴を要求したものがいた、とされている(いずれも33ページ)。同国人に対してさえこれなのだから、敵国の民間人に対してどのようなふるまいに及ぶか想像がつくというものである。
捕虜の殺害については単なる下級兵士の暴走ではなく、軍の様々なレベルから命令が出ていたことが知られているが、1933年に作成された陸軍歩兵学校の教材、『対支那軍戦闘法ノ研究』には

支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮リニ之ヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ

とあからさまに書かれている(45ページ)。このような軍隊で捕虜の殺害が起こらなかったとしたら、奇跡というものだろう。捕虜殺害は起こるべくして起こったのである。
敗残兵や捕虜殺害の命令に対してはそれに抵抗した将校、渋々従った兵隊もいる一方、「戦友の仇討ち」として積極的におこなった者も多い。そういう私的な動機でおこなわれる殺害が手続き的に不当なものとなるのは当然と言えよう。二人の従軍記者が(そのボロボロの風体から)中国人に間違えられ殺されそうになる、というエピソードが紹介されている(124ページ)が、誰何するでもなくいきなり上官が「突けッ! 突けッ!」と命令し、兵士が「目を血走らせ、どうじに銃剣をしごいた」とされている。
ところで本書でも「便衣兵狩り」という表現が用いられているが、その大半は「武器を持って抵抗」するでもなくむしろ武器を放棄した敗残兵が対象である。実態としてはとても「便衣兵狩り」などとは呼べまい。また日本軍が拙速な手段で敗残兵とともに民間人まで殺害することになった要因の一つとして、入場式を急いだことがよく指摘されるが、本書ではその背景として日本国内の戦勝気分、それを煽るマスコミが指摘されている。

Posted: 金 - 7 月 21, 2006 at 07:50 午前          

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