朝倉喬司、『立花隆の正体』、リム出版社
2003年刊の本なので、ロッキード裁判批判論(厳密には“ロッキード裁判批判論への立花隆の再反論”批判、だが)としてはもっとも新しいものの一つと言うことになる。全6章のうち第3章がロッキード裁判について論じている。新しいだけになにか目新しい論点でもあるかと少々期待して読み始めたのだが…いけませんね。のっけから九五年二月の判決において最高裁は、ロッキード社のコーチャン元社長、クラッター元東京支社長に対する嘱託尋問調書は、「違法収集証拠」だとして、証拠から排除したのだった。(78ページ)なんて書いてあるよ。う〜ん…どうしてこんなつまらん誤読をする人間がいっぱいいるんだろうか。最高裁判決はこちらから読むことができるが、どう読んだって「違法収集証拠」だから証拠採用が斥けられたのでないことは明白なのに。以前にも引用したことがあるが、最高裁が嘱託尋問調書の証拠採用を斥けたのは以上を要するに、我が国の刑訴法は、刑事免責の制度を採用しておらず、刑事免責を付与して獲得された供述を事実認定の証拠とすることを許容していないものと解すべきである以上、本件嘱託証人尋問調書については、その証拠能力を否定すべきものと解するのが相当であるからである。より被告に有利な補足意見を書いた大野判事ですら、嘱託尋問そのものが違法とは言えないことを認めているというのに。こういう明々白々のデタラメが流布している場合、限られた起源があってそこから伝播したと考えるのが常道なのだが(朝倉喬司が自分で判決を読んでいればあんなことは書くまい)、次のページでさっそくネタが割れる。木村喜助の『田中角栄 消された真実』である。この駄本を鵜呑みにしたのだとすれば納得のいくはなしである。最高裁が嘱託尋問調書の証拠採用を斥けたにもかかわらず「その他の証拠」によって(榎本、檜山に)有罪判決を下したことに関して、朝倉は木村から次の一節を引用し、「弁護人としてはまことにもっともな言い分」と評している。これは実に不当であり、納得できるものではない。なぜなら、その他の証拠とはいっても、毒樹(コーチャンらの証言)から導き出された毒の果実(丸紅の人達の供述等)であって、それらはすべて証拠能力を欠くものだからである。この木村の主張は三重に間違っている。まず第一に、裁判所は弁護人が主張するほどに「毒の果実」理論を厳格に適用するとは限らない。まあこれは弁護人の「言い分」としては「まことにもっとも」と言ってもよかろう。しかし第二に、最高裁は嘱託尋問を「違法」としていないのである。第三に、コーチャンらへの尋問の嘱託そのものは丸紅ルート関係者の逮捕に先立って行なわれたが、諸々の手続きに手間取った結果、丸紅側の被告は嘱託尋問が始まる以前に(そしてその調書が日本の検察に引き渡される以前に)逮捕されているからである。コーチャンらの調書がなくとも、大久保らからの供述が得られたことは確実である。したがって、コーチャン、クラッターらの証言がなければ「現金の出所や趣旨を認定することはできず」というのも間違いであるし、「立花が(…)声高に主張していた嘱託尋問調書の適法性を、(…)裁判所が最終的に否定した」というのも間違いである。くどいようだが、裁判所が否定したのは嘱託尋問調書の証拠能力であって「適法性」ではない。適法に作成された調書でも証拠能力を否定されることは十分あり得るのである(朝倉はこれ以降の部分でも、調書の証拠能力と尋問の適法性とを混同して論じている)。さらに言えば、なるほど立花は嘱託尋問調書の証拠能力を強く肯定していたが、同時に「免責」をめぐって異論の余地があり得ることはきちんと認めていたのである。この時点ですでに朝倉がロッキード裁判について基本的な知識を書いたまま立花隆を批判していることは明白なのだが、せっかく買った本であるので(ちなみに、PDF形式のオンラインブックで購入)残りの論点についても簡単に触れておくことにする。83ページ嘱託尋問にあたって最高裁が出したいわゆる「宣明書」に関して、「三権分立」に反するのではないか、検察側に一方的に肩入れしたことにならないか、という手垢のついた論点。嘱託尋問は刑訴法226条の延長線上で行なわれているのだから、ここで裁判所が登場することになんの不思議もなく、また最高裁が出した「宣明書」はいかなる法的効力を持つものでもない。以上!もうひとつ、アメリカの要求をのんだのは「国辱」ではないかという、これまた反論済みの議論の繰り返し。くだらない。日本とアメリカという異なる法制度をもつ国家間で司法協力が行なわれ、その際法制度の違いを埋めるために日米双方がそれぞれ妥協しあったに過ぎないのであって、こんなことを「国辱」と考えるのは“自虐”的にもほどがあろう。立花隆も書いていたことだが、嘱託尋問は要するにアメリカの裁判所を日本の裁判所の出先扱いして行なわれたわけだから、国粋主義者は喝采をこそ叫ぶべきであって「国辱」などと悩む必要はないのである。83〜84ページこれまたもう飽きるほど再反論してきた「反対尋問権」問題。あまりにばからしいので最近2chの某スレで投稿したもの(笑)をコピペしておく。
2)憲法37条2項が保証しているいわゆる「反対尋問権」は、捜査段階で作成された調書(当然反対尋問はない)の証拠採用を禁じていない。さもなくば刑訴法321条は違憲になってしまう。それゆえ、嘱託尋問調書が証拠採用されたからといって「反対尋問権」が奪われたことにはならない。捜査段階で作成された調書の類いは、反対尋問を経ていないことを考慮に入れて、一定の条件を満たさなければ証拠採用できないことになっている。
3)田中側は公判でコーチャンらへの嘱託証人尋問を請求することができた。全日空ルートでは弁護側がロッキードのエリオットに宣誓供述書をださせて証拠申請したこともある。ところが田中側は嘱託尋問調書の証拠調べの段階では証人尋問を申請しなかった。その3年後になってあらためてコーチャンらへの証人尋問を申請したが、立証趣旨の不明な、裁判引き延ばし目的が明白な申請だったので却下されただけ。
( 1)
は省略)
また、朝倉はロ裁判批判に加わった石川泰の「私がこの第一審判決を批判するのは、田中角栄という被告を弁護するためではなくて、日本の民主主義を守るためなのです」という言葉を引用して、「法曹人としてきわめてまっとうな意見」と評しているが、同じ発言を立花は「偽善欺瞞の人権論」と評している(『ロッキード裁判批判を斬る』、第3巻、294ページ〜)。なぜか? 石川泰が所属する自由法曹団(いうまでもなく代々木系)が全共闘系過激派学生の弁護を拒否した際、「暴力学生に人権はないのか」という批判を「問題の本質を完全に外らし歪めるためのマヌーヴァー」だとして反論していたからである。石川によれば「現在の『暴力』学生の行動と、今日の国家権力による人民の権利侵害の実態とのかかわりあいを正確に見定める」ことが必要だということだが、それならば当然「現在の田中角栄の行動と、今日の国家権力による人民の権利侵害の実態とのかかわりあいを正確に見定める」ことも必要になる道理であろう。田中以外に擁護すべき被告はいくらでもいたはずである。
また細かな点だが、87ページの最後の行にある「嘱託尋問調書は当該の法廷(…)が取ったものでもない」という表現は、朝倉が刑訴法321条を誤読していることを強く示唆している。
刑訴法321条1項3号の「国外にいるため」要件について。ここは単に一審判決後の裁判批判論を蒸し返すだけでなく、いちおう立花隆の反論をふまえた再反論になっているという点で、木村弁護士の著作などよりはよほど上等ではある。しかしながら、立花の石川弁護士批判を「プロ中のプロといっていい法律家の見解に対して「いい度胸だ」と、まずは誉めておこう。が、では自身の(…)法解釈がどんなものかといえば、(…)こじつけの「見本のような」シロモノなのである」(90ページ)と評した部分は、「プロ中のプロ」である一審、二審の裁判官がいずれも嘱託尋問調書に証拠能力を認めたという事実を失念しているとしか思えない。まあ、「いい度胸」であると誉めてはおこう(笑) 石川弁護士の見解が専門家の見解であるが故に尊重されねばならないなら、裁判官(そして検察官)の見解もまた専門家の見解として尊重されねばなるまい。
95ページ。「調書は後に証言者が法廷で被告側の反対尋問を受けることを前提にして作られねばならない。これは憲法上の大原則である。」これまた大間違い。たしかに、捜査段階において尋問された証人は(もしその証言が重要なものであれば)公判においても証言することが予想される、と言うことはできる。しかし捜査段階での調書は必ずしも裁判において証拠申請されるとは限らないし、申請されてもそれが認められるとは限らない。だいたい、警察や検察に対して任意で証言する参考人の調書に関して、一体どのような意味で「法廷で被告側の反対尋問を受けることを前提にして作られ」ているというのだろうか? 「反対尋問」は裁判が始まって初めて問題になる事柄なのである。さらに言えば、なるほどコーチャンらが日本の法廷で証言する可能性は事実上無かったが、それは弁護側が公判段階で嘱託尋問を申請する可能性までなかったことを意味しないのである。責められるべきは証人申請を3年間も店晒しにしていた田中弁護団であろう。
96ページ〜 立花が刑訴法176条を援用して、321条の「国外にいるため」が当初から国外にいる場合も含むとしたことへの反論。
(…)問題のポイントは、証言の不能が供述当時「予想されたか、されなかったか」などでは全くない。
条文が、法廷証言は当然なされるものとして作られた調書について規定しているのか否か。それがポイントだったわけである。
はっきり言って意味不明な文章である。条文(321条)が「法廷証言は当然なされるものとして」いたかどうか、は(公判での)供述不能が供述当時予想されたかどうかといったいどう違うというのか? 「当然なされるものとして」いたのなら供述不能は「予想」されていなかったのだし、供述不能も予想されていたのなら法廷証言は必ずしも「当然なされるもの」とはされていなかったのである。さらに言えば、捜査段階での証人が法廷での証言も期待されるかどうかは、実際に証言が行なわれるまで検察側にとってもわからないことである。実際に任意で供述させてみたところ、およそ有罪の立証には役立ちそうにないことがわかる…といったことだっていくらでもありうるわけで、そのような場合でも「反対尋問」を想定して調書を作らねばならないという馬鹿げたことを朝倉は主張しているのである。
100ページ〜103ページ 立花の議論を「デマゴギー」「ごまかしのレトリック」と批判している部分だが、その批判方法が裁判批判派に対する立花の批判とそっくりなのが笑える。なお、立花の『エコロジー的思考のすすめ』に関しては私も全く評価していないので、現時点で朝倉の批判に異を唱えるつもりはない(まあずいぶん前に一度読んだきりなので、きちんと検証するにはもう一度両者の議論を読み比べる必要があるが、そんな義理もないので)。
105ページ〜 これ以外の箇所でも、立花が裁判批判に浴びせた悪罵が槍玉に挙がっている。たしかに『ロッキード裁判批判を斬る』には決して上品とは言い難い表現が頻出するし、渡部昇一を「自閉症のおじさん」呼ばわりした部分はこの本が今増刷されるとすれば訂正されてしかるべきところではある。しかしながら、裁判批判派(渡部昇一を含む)が立花隆に浴びせた悪罵の数々を無視して立花隆だけを一方的に責めるのはアンフェアもいいところ。立花憎しのあまり目が曇ったとしか言いようがない。
107ページ〜 立花の主張が「裁判所の丸抱え」云々という批判。しかし、裁判批判に対して再反論しようとする場合に、その主張が裁判所(ないし検察)のそれとその骨格において一致することになんの不思議があるだろうか?
108ページ 「だが、「審査したのである」の、その「審査」について、それを正当化すべくなされた立花の“弁論”が、いかにデタラメきわまりないものだったかを、私たちはすでに見た」と称しているが、朝倉は刑訴法321条1項3号の「特信性」「必要性」要件については全く触れておらず、たかだか「供述不能」要件についてすでに反論済みの議論を繰り返しているに過ぎない。
田中側が行なったコーチャンらへの証人申請が「本気」でなかったという立花の判断に「説得力があり」としている点はフェアと言えるが、「反対尋問というのは被告人の至上の権利なのだから」(104ページ)というのはまたしても反論済みの議論の蒸し返しである。
110ページ〜 法学者井上正治が最高裁の「宣明書」に関して
取引条件として、将来の反対尋問を保障させる約束をとりつけておくべきでしたね。これは絶対に必要です。最高裁は、なぜそこまでやらなかったのでしょうか。
と述べているのを「筆者にも非常にわかりやすい問題提起」としている。しかしながら、仮に田中側が早期にコーチャンらへの証人尋問を申請し、裁判所がそれを認めたにもかかわらず、アメリカ側が「いや、そんな約束はしていない」といって嘱託尋問の実行を拒否したのであるならともかく、そんな事実はなかったのである。「反対尋問を保障」する約束がなかったからといって、反対尋問(を趣旨とする証人尋問)が不可能であったわけではない。現に全日空弁護団はエリオットから宣誓供述書をとるというかたちで実質的な証人尋問を行なっているのである。コーチャンらへの証人尋問が実現しなかったのはひとえに田中側の不手際(というより不作為)のせいであって、裁判所を責めるのはお門違いもいいところだ。もちろん、公判において証人尋問がアメリカ側に嘱託された場合それに応じてくれるのかをあらかじめ確認しておいてもよかったといえばその通りではある。しかしそうした確認がなかったからといってなにかしら被告人田中の人権が侵害されたかというと、そんなことは全くないのである。
111ページ ロッキード事件においてコーチャンらは「主犯格」ではないし、コーチャンらへの嘱託尋問は「事実上禁じ」られてもいなかった。
112ページ いい加減嫌になるが、最高裁は嘱託尋問調書を「違法収集証拠」などとはしていない。また、大野判事の補足意見のうち、自分に都合のいいところだけ引用して
そこで、本件嘱託証人尋問にそのような重大な違法が存するといえるかどうかを検討すると、刑事免責による証言強制の許否は、日米両国の法制度のずれから生じている問題であって、前記のとおり、我が国の刑訴法はこの制度を採用していないため、我が国内では行うことができないものの、憲法に違反するとまで解することはできず、我が国の裁判官による嘱託に基づきアメリカ合衆国の裁判官又はその命ずる者によって実施されている点において司法上の統制を受けているということができ、捜査機関が国際的犯罪の捜査資料を収集するために、アメリカ合衆国において合法として行われた強制捜査手続について、重大な違法があるものということはできない。
という箇所を無視しているのは、ご都合主義もいいところであろう。
結論:他の章はともかく、本章で明らかになるのは朝倉喬司の「正体」の方である。
Posted: 月 - 11 月 14, 2005 at 11:51 午後
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