原理原則を重んじることについて あるいは裁判批判派がいかに事実をないがしろにしているかについて
ロ裁判問題落ち穂拾いの番外編
7月26日初稿。7月30日改訂。立花隆のロッキード裁判傍聴記、『ロッキード裁判とその時代』全4巻(朝日文庫)、古書店にて購入。
この2ヶ月ばかり、ロ裁判批判派とやりあっているうちに、その基本的な戦略が飲み込めてきた。刑訴法320条の伝聞法則(伝聞証拠排除原則)や免責が明文の根拠を欠くことにこだわっていること、これらに象徴される一種の原理原則主義である。そしておそらくこれがロ裁判批判のもつ「魅力」なのであろう。ロッキード裁判の捜査および裁判(1、2審)には明文の根拠をもたないプロセスがあったこと、原則に対する例外に依拠した部分があったこと、これは確かである。このことは私も否定していないし、私の議論の主要なソースである立花隆の議論でも否定されていない。「いや、このケースは確かに例外だが、許容される例外なのだ」とか「いや、確かに明文規定はないが法の精神に照らせば違法ではないのだ」といった議論に較べれば、「反対訊問権が保証されねばならないのは大原則だ」とか「明文化された根拠もないことをやるのはおかしい」といった議論の方が一本筋の通った、カッコイイ議論に見えるのは確かだろう。なるほど原理原則をつらぬく事は大切であり、またそうした態度が日本社会ではないがしろにされがちであることも事実だからである。だからこそ時の最高権力者を擁護することがあたかも反体制的態度であるかのような奇妙な事態が出現したのである。だが、認知科学における「フレーム問題」を考えればわかるように、そもそもあらゆる事態を想定した明文規定をつくることは不可能である。また原理原則は言語的に表現される際には極めて簡潔なかたちをとるのが通例であるから、それを字義通りにかつ厳格に解釈するならば現実の複雑さに対応できなくなってしまうものである。現実というものがしばしば人間の想像を超える多様な姿を呈することを考えた場合、過剰な「明文」尊重主義、過剰な原理原則主義はかえって明文規定や原理原則と現実との乖離をひろげてしまうことになり、結果として原理原則を窒息させてしまうことにつながるだろう。もちろん、あまりにも融通無碍な解釈もまた明文規定や原理原則を踏みにじることにつながってしまうのは確かだが。原理原則一本やりでもなく、融通無碍でもない「合理的な範囲での柔軟な運用」という方針はなにしろ定式化することができないためにどうしても議論のしかたが野暮ったくなるし、ケース・バイ・ケースの検討を強いられるという意味でカッコよくもなければスッキリ胸のすくような立場ではない。しかし近年におけるプラグマティズムへの再評価の流れはそうした方針の妥当性を証していると言えるのではないか。以下、当初「新資料を読んでの雑感 その1」(7月29日)に書いたものをこちらに(一部補足のうえ)転載する。立花隆の「ふたたび『角栄裁判批判』に反論する」には次のような一節がある(73頁)。 これ〔ロッキード裁判の裁判官。引用者〕と著しく対照的なのが、角栄裁判批判者たちの立場である。彼らは、そこにあった具体的な現実を無視して、あくまで、一般論、抽象論に固執して議論を組み立てていく。 一般に、一般論、抽象論のほうが、個別論、具体論より論理的整合性を保った議論を構築するのが容易である。(中略)そこで、論理的整合性に目を奪われてしまうと、前者の方が正しいように思われてくるかもしれない。しかし、その正しさとは、実は頭の中の世界における正しさに過ぎず、この現実世界においては、後者の方が正しいことはいうまでもない。ほとんど同じことが指摘されているのが分かるだろう。、実は別のところでやはり同じようなことを主張している人がいたのを発見した。私がmayson氏と最初にやりあった「小室直樹☆統一スレッド」のご先祖にあたる「小室直樹」
というスレッドにおいて、やはりロッキード裁判批判論をめぐるやりとりがあった。2001年9月の「350」以降である。今回の議論と論点はほぼ変わらないのだが、小室支持派(裁判批判派)はしきりにデュー・プロセスを強調し(「あなた、デュープロセスってご存知ですか」といったどこかで聞いたような書き込みもある)、「嘱託尋問は違法だったのだから無罪」と主張している。これに対して「最高裁判決は証拠能力を否定しただけであって違法だとは言っていない」「万一、嘱託尋問が違法だったとしても、検察の提示した証拠に一つでも違法性があればただちに無罪になる、などというのは珍説」といった反論が出ているのだが、やはり議論が煮詰まってゆかない。もちろん、後者の反論も有罪の根拠になるのが違法に収集された証拠だけだったり、違法性の程度が重大である場合に無罪になるということに異論を唱えているわけではないにもかかわらず、である。こうした事態をうけて、「496」
や「508」
のような投稿があった。ツボとなる部分を引用するなら(改行位置を修正)
小室の議論で嫌というか、気をつけるべきなのは、わりと常識的な論点を、「これがポイント。これさえ押さえておけばすべてがわかる。これを押さえてない議論は全部ダメ」みたいに、誇大に持ち出す点でしょう。
読者のほうは下手をすると、それで全部理解したつもりになって、事実や論点をきちんと詰めていこうとする態度を放棄してしまう。このスレのデュープロセス氏の一連の書き込みはその典型でした。「信者」と揶揄されるのも、それなりの理由があると思います。
ここで問題になってるのは、小室信者が好きそうな「原則と例外の関係」とか「原理的思考の有効性」なんて一般的な問題じゃありません。当たり前すぎる一般論を振り回して具体的な論点をないがしろにする態度を取らないこと。ロッキード事件について論じるなら判決はきちんと読んどくこと。
となる。私の印象も立花隆、496氏と同じである。読んでいてまさに「我が意を得たり」という心境であった。裁判批判派はしきりと憲法37条や「デュー・プロセス」を強調し、「お前は憲法知らずだ」といった非難を浴びせるのだが、およそ裁判を論じる場合に伝聞証拠排除の原則や適正手続きの重要性、より一般的には被告人の権利の重要性を無視した議論をするはずがない。たとえ内心では「怪しいやつはがんがん拷問にかけて有罪にしてやればいいんだ」と思っているような人間でさえ、議論に勝とうと思うなら被告人の人権が充分尊重されねばならないことを前提として議論するものである。「お前は憲法を尊重するのか?」「人権という理念を尊重するのか?」といった問いは石原慎太郎級の反人権主義者相手でなければ意味を持たないのである。本当の問題はその「充分」とはどの程度をもって言うのかという点、そして具体的な裁判に即してどのような事実があり、それがどの程度被告人の権利を侵害しているのか、を具体的に議論することである。原理原則だけを論じるなら「憲法37条は大切です。12条の制約の範囲内で尊重されねばなりません」で終わりなのである。裁判批判派が具体的な事情に踏み込んで論じてくれない限り、先のスレッドでも述懐していた人がいたように、いつまでも立花・渡部論争の反復に終わってしまう…。某巨大掲示板でのやりとり、そしてここでのやりとりを通じてよくわかったのは、mayson氏にしてもAngelix氏にしても小室直樹や渡部昇一といった裁判批判派の文献だけを読み、両者の主張を裁判の実際の経過や判決文、主要な反「批判」論である立花隆の主張とすりあわせて評価するという努力をほとんどしていない、ということである。もちろん、人間が持つリソースは有限であるから、自分が信頼している著者の文献を読む際に検証努力をある程度はしょる(とりあえずは信頼できるものとして扱う)、ということはあってよいだろう。しかしながら小室直樹にせよ渡部昇一にせよ、刑事裁判については(立花隆と同じく)専門家ではないのだから、両者の専門分野における発言に較べればシビアに評価したうえで読まねばならないはずだ。まして、こちらは一貫して立花隆の主張を紹介しつつ小室直樹や渡部昇一の主張を反駁しているのである。論戦を有利に進めるためにも、また知的誠実さをアピールするためにも、ロッキード裁判にまつわる事実関係や立花隆の主張についてある程度のことを調べておくのは当然だと思うのだが…。田中側によるコーチャン等への証人尋問申請の件について、こちらがその申請の時期や当時の情勢をいくら説明しても「時期は問題じゃない」と原則論に固執し、では田中側が示した立証趣旨はなんだったのかと問えばまともに答えられない。コーチャン等の調書が採用されなければ田中らは無罪になったはずという主張に対するこちらの反論にもまともに答えない。今日、立花隆の『ロッキード事件とその時代』全4巻を古書店で入手してきたので改めて確認できたのだが、丸紅側の被告人は公判でも起訴事実の大筋を認めているのである。細かな点では検事調書における供述を否定しているものの、少なくとも田中に5億円を渡したという点については丸紅側被告の証言によってバッチリ立証されている。特に大久保被告はほぼ全面的に検事調書における供述を肯定しており、これだけでも田中の収賄は9分9厘立証されていると言えるのである。こうした事実を無視して「コーチャン、クラッターらの調書が証拠採用されなければ無罪」と主張するのは滑稽でしかない。小室直樹や渡部昇一を盲信するにしてもそれを自分の内心にとどめておくのならまだいい。しかしいかにマイナーなブログとはいえ原理的には何億人という人間が目にする可能性がある場において(実のところ、Googleで「ロッキード裁判」をキーワードに検索すると当ブログはかなり上位にヒットするのである)裁判批判論を展開する以上、自分が依拠している小室直樹や渡部昇一の議論のクレディビリティを検証する姿勢がないというのはいかがなものだろうか。まさに「信者」と揶揄されるのも無理はない、と496氏の言うとおりである。
Posted: 金 - 7 月 30, 2004 at 11:00 午後
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