あ〜やっぱり小室直樹が出てきた



別館で「もうとりあわない」と宣言してしまったのでこちらで。
クッキーと紅茶と 「宮台真司経由小室直樹行き、その風景

経緯をご存じない方は
「論理」で「犠牲者30万人」の「蓋然性」を否定する数学屋さん(追記あり)
数学屋さん、ふたたび
「数学屋」さん、まとめ
および青狐さんの
戦時国際法を無視する「数学屋のメガネ」の主張
あえて、宮台真司氏の不毛な態度について
と、これらでとりあげられているkhideaki氏のエントリとをご参照いただきたい。


さて、小室直樹読者ということを知って「腑に落ちた」思いをしたのは、かつて小室直樹読者とロッキード裁判をめぐって議論したことがあったからだ。そのときに抱いた私の感想はほとんどそのまま今回にもあてはまる。

原理原則を重んじることについて あるいは裁判批判派がいかに事実をないがしろにしているかについて
(前略)
立花隆の「ふたたび『角栄裁判批判』に反論する」には次のような一節がある(73頁)。

 これ〔ロッキード裁判の裁判官。引用者〕と著しく対照的なのが、角栄裁判批判者たちの立場である。彼らは、そこにあった具体的な現実を無視して、あくまで、一般論、抽象論に固執して議論を組み立てていく。
 一般に、一般論、抽象論のほうが、個別論、具体論より論理的整合性を保った議論を構築するのが容易である。(中略)そこで、論理的整合性に目を奪われてしまうと、前者の方が正しいように思われてくるかもしれない。しかし、その正しさとは、実は頭の中の世界における正しさに過ぎず、この現実世界においては、後者の方が正しいことはいうまでもない。

ほとんど同じことが指摘されているのが分かるだろう。、実は別のところでやはり同じようなことを主張している人がいたのを発見した。私がmayson氏と最初にやりあった「小室直樹☆統一スレッド」のご先祖にあたる「小室直樹」 というスレッドにおいて、やはりロッキード裁判批判論をめぐるやりとりがあった。2001年9月の「350」以降である。今回の議論と論点はほぼ変わらないのだが、小室支持派(裁判批判派)はしきりにデュー・プロセスを強調し(「あなた、デュープロセスってご存知ですか」といったどこかで聞いたような書き込みもある)、「嘱託尋問は違法だったのだから無罪」と主張している。これに対して「最高裁判決は証拠能力を否定しただけであって違法だとは言っていない」「万一、嘱託尋問が違法だったとしても、検察の提示した証拠に一つでも違法性があればただちに無罪になる、などというのは珍説」といった反論が出ているのだが、やはり議論が煮詰まってゆかない。もちろん、後者の反論も有罪の根拠になるのが違法に収集された証拠だけだったり、違法性の程度が重大である場合に無罪になるということに異論を唱えているわけではないにもかかわらず、である。こうした事態をうけて、「496」 や「508」 のような投稿があった。ツボとなる部分を引用するなら(改行位置を修正)

小室の議論で嫌というか、気をつけるべきなのは、わりと常識的な論点を、「これがポイント。これさえ押さえておけばすべてがわかる。これを押さえてない議論は全部ダメ」みたいに、誇大に持ち出す点でしょう。
読者のほうは下手をすると、それで全部理解したつもりになって、事実や論点をきちんと詰めていこうとする態度を放棄してしまう。このスレのデュープロセス氏の一連の書き込みはその典型でした。「信者」と揶揄されるのも、それなりの理由があると思います。

ここで問題になってるのは、小室信者が好きそうな「原則と例外の関係」とか「原理的思考の有効性」なんて一般的な問題じゃありません。当たり前すぎる一般論を振り回して具体的な論点をないがしろにする態度を取らないこと。ロッキード事件について論じるなら判決はきちんと読んどくこと。

となる。私の印象も立花隆、496氏と同じである。読んでいてまさに「我が意を得たり」という心境であった。裁判批判派はしきりと憲法37条や「デュー・プロセス」を強調し、「お前は憲法知らずだ」といった非難を浴びせるのだが、およそ裁判を論じる場合に伝聞証拠排除の原則や適正手続きの重要性、より一般的には被告人の権利の重要性を無視した議論をするはずがない。たとえ内心では「怪しいやつはがんがん拷問にかけて有罪にしてやればいいんだ」と思っているような人間でさえ、議論に勝とうと思うなら被告人の人権が充分尊重されねばならないことを前提として議論するものである。「お前は憲法を尊重するのか?」「人権という理念を尊重するのか?」といった問いは石原慎太郎級の反人権主義者相手でなければ意味を持たないのである。本当の問題はその「充分」とはどの程度をもって言うのかという点、そして具体的な裁判に即してどのような事実があり、それがどの程度被告人の権利を侵害しているのか、を具体的に議論することである。原理原則だけを論じるなら「憲法37条は大切です。12条の制約の範囲内で尊重されねばなりません」で終わりなのである。裁判批判派が具体的な事情に踏み込んで論じてくれない限り、先のスレッドでも述懐していた人がいたように、いつまでも立花・渡部論争の反復に終わってしまう…。(後略)


エピゴーネンの思考パターン
小室直樹に『論理の方法』という著書がある。後件肯定の虚偽などについても解説しているのだろうかと思って(笑)書店に行ってみたが、副題が「社会科学のためのモデル」で、論理学の本ではなく社会科学におけるモデルに関する本であった。というわけで買うのは止めたのだが、それでも収穫があった。「序章」に「本質的なことだけを強調」「捨象、抽象」という文言を見つけたからだ。これで小室直樹エピゴーネンのロ裁判批判におけるふるまいに関する立花隆や496氏、私の分析がほぼ的を得ていたことがはっきりした。要するに教祖のご託宣を断片的に鵜呑みにしてしまったわけだ。
確かにモデルを「つくる」という場面では非本質的なものを捨象することになる。間違って本質的な部分を捨象してしまえば間違ったモデルが出来上がることになるし、首尾よく本質的な部分を残して抽象化できればいいモデルが出来上がるわけだ。だが信者が忘れているのは、
・とり扱う事象により、要求される抽象化のレベルは異なる
・モデルを「使う」、ないし「検証する」場面では具体的なデータに触れなければならない
という点なのである。例えばお白州裁判と現在の日本の裁判とを比較するのであれば小室信者が振り回す抽象的なモデルが(英米法と現在の日本の法体系の違いを軽視している点を除けば)役に立つ。だが、ロ裁判批判に関して問題になっているのはそんなことではない。彼らはロ裁判が近代法の原則を踏みにじっていると批判するのだが、本当に踏みにじっているかどうかを決して具体的に検証しようとしない。彼らの議論は要するに

大前提:被告の反対尋問権を奪った裁判はすべて暗黒裁判である
小前提:ロッキード裁判では被告の反対尋問権が奪われた
結論:ロッキード裁判は暗黒裁判である

という三段論法なのだが、小前提の正しさについては渡部昇一を鵜呑みにするだけで、けっして裁判の実態を調べようとはしないのである。(後略)

5分ほどあれば「数学屋」氏の南京事件論への批判に書き換えられそうだ。

Posted: 水 - 4 月 4, 2007 at 03:22 午前          

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