『ロッキード事件 「葬られた真実」』


平野貞夫、『ロッキード事件 「葬られた真実」』、講談社

久々の本格的なロッキード事件ネタです。この本、刊行直後に目にしてはいたんだけど、なにしろロッキード裁判の弁護人が書いた「田中無罪論」ですらグダグダなシロモノでしかなかったこと、自分なりに必要な資料の収集もやり終えて "Case Closed" な雰囲気になっていたこともあって、手を出さずにいた。別館でとりあげた文献を買うついでにふと気が向いて買ってみたのであるが…予想以上に読み応えのある本でした。
著者は1960年に衆議院事務局に就職。ロッキード事件発覚当時、衆議院議長前尾繁三の秘書。その後政界にうって出て自民党、新生党、新進党、自由党、民主党…と渡り歩き(所属政党それ自体の離合集散にもよるわけだが)、2004年に引退。この経歴からもある程度推測できるように、田中角栄に一定のシンパシーを示しながら田中べったりではなく、自民党べったりでもなく、かといってもちろん野党べったりでもないというなかなか面白い立場の人である。本としての構成もなかなか巧みで、秘書として仕えた前尾議長への傾倒ぶりをさんざん強調しておきながら後半にどんでん返しを用意し、さらにその後にもうひとひねり加えている。細部にこそ意味がある学術書ではなくネタにこそ意味がある内幕暴露本であるので、ネタばれは避ける。来年の夏くらいには改めて細部に立ち入る紹介をするかもしれない。

ただ、副題となっている「葬られた真実」については、少なくともロッキード事件ウォッチャーの間ではほとんど周知の事実といってよいことを改めて確認しているだけなので、ここで紹介してもよいであろう。本書はいわゆる「ロッキード事件=アメリカ謀略」説をとっていない。よりオーソドックスな、「児玉ルートこそ本命」説をとっている。児玉ルートとなれば真実が葬られることによって救われた政治家も当然一人に絞られる。そう、例の大勲位である。国会の証人喚問を控えて児玉の病状が急に悪化したことについては従来も「一服盛られた」(正確には注射された、だが)説が唱えられてはいたが、本書もまたその説を支持している。

他方、ロッキード裁判論としては、極めて杜撰である。従来のロッキード裁判批判論の域をほとんど越えていない。そのことは、ロッキード事件丸紅ルートの最高裁判決で、コーチャンらの嘱託尋問調書の証拠採用が斥けられたことをもって、「最高裁自身が認めた誤り」などと言っている(終章)ことだけからも明らかである。コーチャンらの嘱託尋問調書を日本側に引き渡してもらうにあたって最高裁が出したいわゆる「明書」は、第一義的には検察による捜査プロセスに関わるものであって、当該調書が裁判で証拠採用されることとは論理的には独立である。現に、最高裁の判決も、嘱託尋問が捜査として違法であったとはしていないのである。合法的に収集された証拠の証拠採用を裁判所が却下する、というのは別におかしなことではない。そもそも、本書は「嘱託尋問」そのものが「違法捜査」であったという的外れな主張をしており(221頁)、ロッキード裁判論としてはほとんど価値がない。だいいち、著者はロッキード事件に関する日米司法共助手続きに関しても根本的な誤解をしている。問題となる司法共助協定には全11項の「手続き」が含まれているが、本書はそのうち

7(司法共助) 当事者は、他方の国において行われることのある刑事上、民事上及び行政上の裁判または審理に関する手続きに関してその国の司法当局により発せられる嘱託書による嘱託事項の迅速な実施を援助することにつき最善の努力をするものとする。
8(協力の限度) 要請国に対する援助は、被要請国のとる措置として自国において起訴を免除する結果となることのある措置をとることにまで及ぶ必要はないものとする。

の2項が、日本の検察はあらかじめコーチャンらを免責することを約束したものだと解釈している(156頁)。しかし、これは無茶苦茶な解釈である。まず第7項は、要するに日本の検察が日本の裁判所を通じてアメリカ側に嘱託尋問を依頼した場合、アメリカはそれに最大限協力しますよ、ということである。ところが第8項はその協力の「限度」を定めているのである。第8項の文言を、具体的な文脈に即してパラフレーズすると次のようになる。

8(協力の限度) 日本に対する援助は、アメリカのとる措置としてアメリカにおいて起訴を免除する結果となることのある措置をとることにまで及ぶ必要はないものとする。

つまり、アメリカとしてはアメリカにおいてコーチャンらロッキード社関係者を免責してまで日本に協力することはない、と謳っているのである。そもそもロッキード事件はアメリカの上院小委員会の調査で発覚した事件であるから、アメリカとしても刑事立件を念頭においていたわけである。その可能性を放棄してまで日本に協力するつもりはありませんよ、というのがこの第8項の趣旨なのである。なぜこのような無茶苦茶な誤解をしたのか、理解に苦しむ。
これもまた日本のロッキード裁判批判論者にありがちなことであるが、本書もまた「免責を与えられたうえでの証言は、嘘をつき放題である」という予断にとらわれている。しかし事実はむしろ逆である。免責を受けない限り、容疑者は証言を拒否することができる。だが、免責を受けた以上、コーチャンらは証言を拒否することもできず、虚偽の証言をすれば偽証罪に問われかねないという立場に立たされたのである。仮にコーチャンが日本の国会の「参考人」として呼ばれ、それに応じたとしたら、知らぬ存ぜぬの証言に終始したことであろう。後で嘘と露見してもなんら法的責任は問われないからである。しかし免責のうえで証言した以上、田中に不利な嘘をつけばコーチャンらは偽証罪に問われる可能性があったのである。

このような大きな欠点もあるものの、かつて法務大臣を務めた前尾議長と検察とのつながりを含め、なかなか興味深い証言ではある。

Posted: 木 - 9 月 7, 2006 at 09:57 午後          

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