一年越しの返答(30日一部更新)



2004年8月5日、とあるエントリに対して××というハンドル(後述する理由で伏せ字)を名乗られた方がコメントを寄せられたのだが、おそらくはコメントシステムの許容文字数を越えたためエラーが発生し、結局なにをおっしゃろうとしていたのかわからないままになった…ということがあった。メールでの投稿を希望される場合に備えて「いきなり当方からメール差し上げることは控えますので、ご希望でしたらこのコメント欄にてその旨おっ しゃってください」「もしご自分でBlogやWWWページをお持ちで、そ ちらでお書きになるということでしたら、URLをこのコメント欄にお書きいただければ、と思います」と書いておいたのだが、「メールアドレス教えろ」という要求もURLの告知もなかったのでそのままフェードアウトすることになってしまったのである。
余談だが、この時期、名無し(anonymous)がさかんに陳腐なコメントを書き連ねているが、名無しのうえに内容があまりにも乏しいので当方としては一貫してスルーしている。

ところが、ひょんなことから××氏がなにを言わんとしていたのかが判明した。とあるウェッブページに転載されていたのだ。見つけてしまった以上、知らんぷりもできないのでお答えいたします。(ご本人から当該ページを削除する旨連絡をいただいたのでリンクは削除し、ハンドルも伏せ字に。ただしGoogle等のキャッシュは当分のこるわけであり、ロッキード裁判批判厨がコピペして利用する可能性がないわけでもないので、このエントリそのものは削除しない。)
以下、このフォントが「ロ裁判批判派のための未解決問題集」というエントリにおける私の文章、このフォントがそれに対する××氏の反論ないし質問、通常のフォントがそれに対する私の再反論ないし回答である。

・事実誤認に基づき個別の裁判における有罪判決を批判したからといって、それは近代法の原則に則り被告人の権利を擁護することにならない、ということが理解できるか?

日本語が変です。しかし「読書日記」は明快な文章であった。事実誤認に基づいて、有罪判決を批判することは被告人の権利を擁護しない。意味がわかりません。

「それ」が「事実誤認に基づき個別の裁判における有罪判決を批判」することを指しており、「個別の裁判」というのがこの場合はロッキード裁判丸紅ルートを指していることがおわかりになりませんか? それがわかっていてもなお意味が分からないのだとすれば、それはあなたがロッキード裁判論争の文脈を誤解しておられるからではないかと思います。ロッキード裁判批判派(ここでは Angelix氏)は、主観的には(ないし表面的には)「ロッキード裁判は憲法が被告人に保証した権利を踏みにじっており、それゆえ憲法違反の裁判である」という主張を軸としています。それに対して、立花隆は「ロッキード裁判が被告人の権利を侵害している」という事実認定そのものが間違っており、それゆえロッキード裁判は(枝葉における瑕疵はあるにしても、全体として)問題のない裁判だったと反論しているわけです。私の議論も基本的にはそのラインに沿うものです。
ところが、小室直樹と渡部昇一を盲信している Angelix 氏および Mayson は立花隆および私の議論を理解できず(ないし理解できないふりをし)、ひたすら“自分たちは憲法で保証された被告人の権利を擁護しているのに対して、ロッキード裁判擁護派は憲法を踏みにじっている”という的外れな認識に固執し続けていたわけです。ここで私が言わんとしていたのは、“そもそもロッキード裁判が憲法違反であるという主張自体が裁判の実情を無視したデタラメなのだから、ロッキード裁判をいくら批判したところでそれは被告人田中角栄を利するだけで、憲法で保証された被告人の権利を保障することにはならない”ということなのです。

・刑事事件の中でも収賄のような権力者の犯罪については、それを厳正かつ公正に追求することがすなわち公権力から国民を護ることにつながる、ということが理解できるか? しきりと「角も縛る法は丸も三角も縛る」ということを強調するが、権力者ほど法の裁きを逃れるという傾向、すなわち「丸も三角も縛る法が、なかなか角は縛らない」という現実は認めないのか? 具体的な根拠無きロッキード裁判批判は、「被告人になる可能性のあるすべての国民の権利」を護ることではなく、むしろあらゆる手段を使って法の裁きを逃れようとする権力者に手を貸すことになる、ということが理解できるか?

筆者が権力者の収賄事件については特に厳罰を処すべきという「考え」に依拠する理由は何ですか。意図が分かりかねます。 そしてその「考え」の基準はなんですか。また、「権力者」という言葉は、どのような意味合いによって使われておるのですか。権力者の犯罪、特に現況して捕捉率の低い収賄事件への厳罰が、「国民」の利益を守る。この意味での「国民」とはどういう意味ですか。

私は「厳正かつ公正に追求」すべしとは書きましたが「厳罰を処すべき」などとは別に主張しておりません。収賄をきちんと処罰することが国民の利益になるということが「分かりかねます」という発言こそ、意図が分かりかねます。収賄なんて全部見逃せばいいとお考えなのでしょうか? 「権力者」の意味合いって、この場合は田中角栄を念頭においていることは明白ではないでしょうか?

・要するに、こちらの目標は「法の下の平等」という理念を実現することだ、ということが理解できるか? 「 政治権力者の処分は,刑事裁判ではなく, 国会の問題です」(Angelix氏のコメントより)というような発想は政治的責任と刑事責任とを混同し、政治家が刑事責任を回避することを容認するロジックであることが理解できるか? 政治家の刑事責任を厳正かつ公正に追及することは「 政界浄化の名の下に,刑事訴訟法を曲げる」(同じくAngelix氏のコメントより)ことなどではさらさらなく、単に「法の下の平等」という理念に基づく行動であることが理解できるか?

「こちらの目標」とはどちらの目標ですか。理念とは「人が考える最高の考え」をいいます。どの人ですか。明示してください。政治家、特に為政者の犯罪は何を持っても厳罰に処すべきである。では、「憲法の理念」とは何ですか。憲法は誰が守るべきものですか。また、権力者とは三権分立の考えから、政治権力、行政権力、司法権力があります。政治家の収賄事件の徹底厳罰は、特に日本では行政権の肥大につながっています。

「こちらの目標」とはもちろん「私の目標」です。それ以降のご質問も、なぜ私に向けられるのか理解に苦しみます。もともとロッキード裁判が憲法の「理念」を踏みにじっていると主張したのはロッキード裁判批判派なのですから、Angelix氏にこそ向けられるべきご質問でしょう。「理念=人が考える最高の考え」という語義解釈には同意できませんが、それはおくとして、「憲法の理念」が誰の考えかと言えばそれは「(理想的な)国民の考え」以外にあり得ないででしょう。
それから、私は(そして立花隆も)「政治家、特に為政者の犯罪は何を持っても厳罰に処すべきである」などとは金輪際主張しておりませんので、誤解のないようにお願いいたします。「政治家の収賄事件の徹底厳罰は、特に日本では行政権の肥大につながっています」というのも意味がよくわかりません。そもそも近代日本において「政治家の収賄事件の徹底厳罰」が実現したことありましたでしょうか? そして「政治家の収賄事件」はほとんどの場合政治家(立法)が行政に働きかけるというかたちをとるのですから、むしろ収賄事件が徹底的に取り締まられないことこそが「行政権の肥大」に繋がっていると考えるべきでしょう。

思うに,かって国会法78条削除の結果、国会内発言は刑事責任を問われるという厳罰徹底によって、国民の代表である国会において自由な国民を守る自由活発な議論という活動が実質的にできないでいるという根本的な視点があります。 それは、行政権、司法権に対する政治権力の相対的低下によってバランスを欠いている。また、第四の権力としてのマスコミにおいては、その行政権力の圧政に対して、チェックアンドバランスになりえていない。これが発言の一つの基準になっていると思います。つまりシステム論の観点から議論を積み重ねているのです。

「国会内発言は刑事責任を問われるという厳罰徹底」とおっしゃいますが、では国会議員が国会内発言に対して刑事責任を問われたケースを全て挙げてみていただきたいものです。それができない限り、「国民の代表である国会において」以降のご発言は全て無意味だとおもいますが。
それから、「発言の一つの基準」って、誰の発言なんでしょうか? 「システム論の観点から議論を…」というのは Angelix氏の主張について言っておられるのだと思いますが、私は氏が「システム論」を正しく理解し使いこなしておられるかについて大きなる疑問を抱いている、ということを申し添えておきます。

三権分立というチェックアンドバランス機能が崩れ,日本においては現実に行政権力がやりたい放題という有り様は、だれもが周知の事実でしょう。行政が行政機能上刑事責任を問われにくいことによって、一般の国民に不利益を与えている現状と対称に国会では政治家への些細な厳罰主義によってその行政権の肥大による国民の利益の損失を食い止めることができないという視点であります。

田中角栄は首相在任当時の収賄で罪に問われたのですから、「行政の長」としての犯罪を問われたのであって、国会議員としての犯罪を問われたわけではありません。つまり、ロッキード裁判は「行政が行政機能上刑事責任を問われにくい」という状況下で、検察ががんばって「行政の長」の刑事責任を問うた事例なんですよ! だとすれば、あなたの立場では検察および裁判所を讃えるのが自然であって、なぜ裁判を批判されるのか理解不可能です。
それから、繰り返しになりますが、「政治家への些細な厳罰主義」とはいったい何を根拠にしておられるのか、ぜひともご教示ください。

・ロ裁判批判論者は刑訴法321条それ自体が違憲だと主張しているのか、それとも321条自体は合憲だがコーチャン等への嘱託尋問調書はその要件を満たさないと考えているのか。(いずれを選ぶかで議論のフィールドは全く異なってくることになる。ちなみにmayson氏がこの問いに答えられないのは、さすがに321条をそっくり違憲だとする覚悟はないものの、それ以外に嘱託尋問調書を斥けるロジックを思いつかないからであると推測している。)


違憲・合憲に対する明確な基準は何か。その明確な基準を教えてください。一方は「刑事訴訟法の役割は何か」というシステム論からの日本特有のシステムの弊害の問題が第一義であるという発言であり,他方は、「権力者の刑事責任の厳罰主義」という近代民主主義にあり方は日本においても現状当然自然に機能しているという視点と形式論理の視点からの発言である。 その基準によってお互い目的が異なるから議論にもならない。

なぜここで「違憲・合憲に対する明確な基準」が問題になるのか理解できません。Angelix氏と私は別段「違憲・合憲の基準」をめぐって争っていたのではありませんから。さしあたりは「最高裁が違憲とするものが違憲、合憲とするものが合憲」で十分です。最高裁の憲法判断そのものを議論しているのではないのですから。
これまた繰り返しになりますが、いったい私がいつ「権力者の刑事責任の厳罰主義」を唱えたというでしょうか? このようなご質問が出ること自体、あなたが Angelix氏の観点からのみ議論をみておられる証拠ではないかと思わざるを得ません。“「刑事訴訟法の役割は何か」というシステム論からの日本特有のシステムの弊害の問題”があることは、立花隆も私も繰り返し認めているのであって、論点はそんなところにはありません。立花隆と私が主張しているのは、日本の司法システムの問題点を論じるための題材としてロッキード裁判はまったく不適切である、ということに過ぎないのです。それゆえ、私の視点が「現状当然自然に機能しているという視点」だというのもとんでもない誤解です。このブログ内を「浜田」ないし「冤罪」で検索してみていただければそのことははっきりします。

・コーチャン等の嘱託尋問調書が「伝聞法則」の例外として証拠採用可能かどうかを論じているときに、ペリー・メイスンシリーズの「オウム」のエピソードなどをひきあいに出し、伝聞法則を強調したところで何の意味もないことは理解できるか?

立花隆氏の関連著作第1巻後半から第2巻における議論でしょうか。 私には意味がわかりません。

ペリー・メイスンシリーズのはなしを持ち出されたのは Angelix氏です。

・刑訴法226条にもとづく証人尋問が捜査段階で行われるものであって、その調書が公判に提出されることを226条は必ずしも前提としてはいないこと、調書は直ちに検察側に引き渡され、公判で検察側が証拠申請することによってはじめて公判という場に登場すること、が理解できるか?

この問題点はなんですか。

Angelix氏が問題点を根本的に誤解しておられる、ということです。
ロッキード裁判批判派は、刑事訴訟法第228条第2項が「裁判官は、捜査に支障を生ずる虞がないと認めるときは、被告人、被疑者又は弁護人を前項の尋問に立ち会わせることができる」としているにもかかわらず、コーチャンらへの嘱託尋問において田中側の弁護人が立ち会っていなかったことをもって、「田中角栄の反対尋問権が侵害された」と主張しています。これに対して、刑訴法226条にもとづく証人尋問は公判での証人尋問ではなく捜査段階での証人尋問なのだから、田中側弁護人の立ち会いがなかったとしても直ちに憲法37条に違反するものではない、というのが立花隆と私の(そして裁判所の)主張です。

・小室直樹と渡部昇一の文献だけを読み立花隆の文献については全く読んでいないのに、二人のロ裁判批判論を盲信するのであれば「信者」と揶揄されてもしかたないと思うが、どうか?

思うに、三つとも意見でしょう。前者は主に社会科学理論におけるシステム論の観点から演繹的、帰納的に論理を積み重ねているのでしょう。自然法則はこうだというようなものです。 「天気について一般の人は議論予測はするが、誰も天気を変えることはできない」これは東大の入試問題でみました。

「三つとも意見」だからといって、その三つが同じだけの妥当性を持つわけではありません。意見のなかにも高い妥当性を持つものと、箸にも棒にもかからないものがあるわけです。私は立花隆も著作も小室直樹・渡部昇一の著作も読んだうえで議論をしているのに対して、渡部昇一の駄論を「引き写す」だけで事足れりとしている相手を非難していたのだ、ということがおわかりいただけませんでしょうか。
それから「演繹的、帰納的に」とはどういうことでしょうか? そもそも小室直樹と渡部昇一はロッキード裁判をめぐる事実関係について多大な事実誤認をしているわけで、「帰納的」な論理などかけらもありません。また、演繹推論はたとえ推論プロセス自体は妥当でも前提となる命題が偽なら結論もやはり偽なのです。偽なる命題から出発して妥当な推論をしても(渡部昇一の場合、推論もめちゃくちゃだったりするのだが)真なる結論は導きだせません。百歩譲ってロッキード裁判批判派の「自然法則はこうだ」という認識が正しいとしても、デタラメな観測データを用いているのだから、天気の予測もはずれるわけです。

天気はどういうものかわかりましたが、その天気を「曇り」から「晴れ」に社会システム論によって変えることはできるのでしょうか。自然法則の都合があると思いますが。

すいませんがおっしゃることが理解できませんでした。ロッキード裁判に即して言うとどういうことなのですか?

後者は関わるあらゆる直接的な視点から三段論法の誤謬の発見によって現実的価値の弱さを提示し組み立てる。

何度も繰り返してきましたが、立花隆にせよ私にせよ、「現実的価値の弱さ」など提示しようなどとは思っていません。むしろ、ロッキード裁判は日本国憲法の理念に(大筋では)即したものだと主張しているのです。

(…)以下の記述に典型。あらゆる利益の諸座を与した現実的妥当性に視点があるともいうのでしょうか。
「どんなに小さくても無視されてはならない法益として具体的に何があり、そのうちのどれが検察側の論理の中で、単なる比較考量の対象の結果として退けられてしまったかということを述べねばならない。」 参考にさせていただきました。

「あらゆる利益の諸座を与した現実的妥当性」というのが理解しにくいのですが…。
「以下の記述」についても文脈を誤解しておられるようです。私が引用した立花隆の文章が言わんとするのは次のようなことです。日本国憲法が保証している人権は、他方で公共の利益による制約を被っている。したがって、(被告人の)人権を論じる際には、いかなる「公共の利益」によっても制約されてはならない権利と、公共の利益によっては制約されてもかまわない利益を峻別しなければならない。ロッキード裁判批判派はひたすら「被告人田中角栄の人権が侵害された」といいつのるが、じゃあいかなる「公共の利益」によっても制約されてはならないどのような権利が侵害されたのか、という点についてはなんら具体的な論証ができていない…
「公共の利益」によって被告人の権利の一部が制約されるというのは別に「現実的妥当性」の観点からの主張ではなく、憲法的理念そのものに内在している事柄です。

考えるに,本裁判批判論の方は微罪とするもの(収賄)によって失われた公益(政治家田中角栄が民主主義の機能を果し得る役割としてこれからの功績)が余りにも大きかったと言っているのでしょう。私としては、この議論はいささか理念論あるいは、システム論に特化した現実的な適法あるいは適性能力が欠ける論である気がします。

そう主張している人物もたしかにいますが、このブログでは裁判批判派もそのような主張は行なっていません。

また、続けると、行政権の更なる肥大を招き、国民の利益が著しく蹂躙されていると考える。論理の基準は社会システム論でしょう。よって、その裁判はそのような逸材を葬り去り行政権力の圧政を招くゆえ暗黒裁判である。

上に同じ。基本的にロッキード裁判批判派は、裁判の手続きに重大な瑕疵があるので「暗黒裁判」だと主張しているのです。私はロッキード裁判の手続きには重大な瑕疵などない、と反論しているのです。

思うに、どのご時世もそうですが、社会システム論者の理念論は現場感覚がないのですね。つまり社会性がない。よくある問題です。自分の考えが社会に反省するすべがないということです。これが、根本的な視点でしょう。つまり実は責任を感じて発言することがないということです。パラドックスですが。よくあることです。

小室直樹(およびそのエピゴーネン)についてはともかく、一般論としてそうであるかどうかについては保留します。「理念論」を語るのは大いに結構。ただ、間違った事実認識を出発点にしては意味がない、とだけ述べておきます。

この逆説がマックスウ゛ェーバーの本質的問題でしょうか。責任の徹底をおっしゃる人が実は責任ある立場にいない。これが本質なのでしょうか。あくまでこれは、私の発見ですが。

この場合、ロッキード裁判批判派は「責任の徹底」をおっしゃってはいないので、ウェーバーは関係ないんじゃないかと思います。

どれが正しいというのは、わかりませんね。
一国民からみれば、田中政治によって命まで奪われた人はいるであろうし(市場)、公共投資による乱開発によって、直線交通ほかで日本的風景が失われたという文化的頽廃の視点(市場)もあるし,田中氏の存在は、時代的要請(市場)であったともいえるであろうし、政的に敗れたという政治家としての限界(競合)かもしれませんし、裁判で田中氏の公益が与され,田中角栄が厳罰に処されなかったとしたら、昨今日本はどうなっていたか。田中氏は病気で早逝しなかったか(自社)。

「公益が与され」というのは「公益が汲みされ」、すなわち「公益が斟酌され」ってことでしょうか? それとも「加味され」でしょうか? それから田中は公判中保釈されており、死亡により公訴棄却となっていますから、結局のところ「厳罰に処され」たとは言えないでしょう。

プレゼンテーション構築ではよく市場、競合、自社をみますが、あてはめると私には分かりやすいです。自社が弱い。そしてそのマーケティングの根拠が分析的ではなく,自然法則のレベルであります。ならば第二の田中角栄も次に現れるでしょう。いや、憂うなら自分がなればいい。

あまり有効なアナロジーだとは思えないのですが…。

一方で、当時の時代性、現場性を踏まえて,検事は妥当な仕事をしたのでしょう。「暗黒裁判である故、法益の価値を鑑み角栄は無罪である」。そこまでの思念をもった理念をもって公益を優先し、それ以後の国家のあり方を守った歴史はあるのですか。そのモデルケースはあるのでしょうか。

「暗黒裁判」なんだったら「法益の価値」を鑑みようが鑑みまいが田中角栄は無罪であるべきです。そのことはロッキード裁判擁護派も当然認めます。「裁判擁護派は角栄なら暗黒裁判で有罪にしてもかまわないと思っている」というのは裁判批判派の一方的な思い込みに過ぎません。

立花氏において、弁護団論理の問題であって,つまり理由を示す。対案を提示するという大切な過程が抜けている。それでは議論にならない。これは著者の現実的なバランス感覚を物語っているのでしょう。素晴らしいと思います。

意味がよくわかりません。「それでは議論にならない」のになぜ「すばらしい」のでしょうか? ここでいう「著者」とは誰のことですか?
また立花隆が「理由を示す(…)という大切な過程」を抜かしているというのはどういうことでしょうか? 彼は文庫本にして3分冊となる著作で、なぜロッキード裁判批判派の議論が間違っていると言えるのかの「理由」を明らかにしていますが。

管理人はいうまでもなく、「ロッキード裁判は適正手続きではなく暗黒裁判である」という批判言説に疑問を抱いているのであって,本裁判に関する自分の意見が絶対だとは思われていないでしょう。政治家の収賄事件は厳罰に処すべきという考えは、国民の利益を守るものだ。それが第一義である。

私から質問です。この考えにいきついたあなたのルーツを教えてください。論理的にいきついたからとうわけではなく、その考えの基準を明示してください。

「本裁判に関する自分の意見が絶対だとは」思っておりませんから、この点はおっしゃるとおりです。ただ、このブログでの批判論者のコメントについて言えばほぼ完璧に論破したという自負はあります。
何度も書きましたが、私は「政治家の収賄事件は厳罰に処すべき」などと主張したことはありません。したがって、それが「第一義」であることなどありえません。なにが「第一義」なのかと問われれば、「事実誤認にもとづくデマに対してはきっちり反論しなければならない」でしょう。また、「政治家の収賄事件は厳罰に処すべき」などと主張したこともないのですから、「その考えにいきついたあなたのルーツ」を尋ねられても困ってしまいます。もう一度私の書いた文章をよくお読み下さい。私は「厳正かつ公正に追求」、と書いたのです。「厳正」とは政治家による汚職がめったに立件されることがない事態をふまえて、他の犯罪と同様目こぼしすることなく追及すべきだ、という意味です。「厳正」に追求した結果「厳罰」には値しないというのならそれでかまわないのです。他方「公正に」とは、政治家もまた基本的人権を有する人間である以上、被疑者・被告人としての権利は守られねばならない、という意味です。

Posted: 月 - 10 月 17, 2005 at 11:59 午後          

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