『田中角栄の真実』、『壁を破って進め』


木村喜助、『田中角栄の真実 弁護人からみたロッキード事件』、弘文堂
堀田力、『壁を破って進め 私記ロッキード事件』(上・下)、講談社

『裁かれる首相の犯罪』はいま3巻の途中まで読み進んだ。いよいよ嘱託尋問調書の証拠採用をめぐる論戦が始まる。「資料編」にある裁判資料のうちさほど重要でないものは斜め読みしていることもあり、意外に早く読み進んでいる。

改めて思うのだが、ロッキード事件の場合、伊藤宏がサインしたピーナツ、ピーシズ領収書の存在があまりにも大きいようだ。ふつう贈収賄事件で領収証が残っていることなどあり得ないわけだが、ロッキード・丸紅間での金銭授受に関してはコーチャンが(おそらくは会計処理上の都合で)領収証を要求したためだ。コーチャンが田中に贈賄しても米国法では犯罪に問われないため、コーチャンとしては領収証のない支出が生じる不都合の方を重視したものと思われる。
この領収証があるために、丸紅側は5億円の授受についてはきっぱり否認することができなかった。田中側に金を渡さなかったと主張すれば丸紅がネコババしたことになってしまう。金の流れが判決で認定されてしまうのであれば、下手に否認しない方がまし、ということでせいぜい受け渡しの状況について曖昧な証言をするくらいの抵抗しかできなかったわけである。
そうすると困るのは田中側。結果的に5億円の受け取りを否認したことは戦術ミスだったわけだ。金を渡した側がそろいもそろって「渡した」と証言しているのに「受け取っていない」と主張すれば、後ろ暗い金だったんだろうという心証を強く与えたことは容易に想像できる。

『田中角栄の真実』は榎本の主任弁護人だった弁護士の著書。「弁護人からみたロッキード事件」という副題は極めて妥当である(←もちろん皮肉)。事実認定や法解釈について一方的に弁護側の主張を書き連ねるのは別にかまわない。とはいえ、最高裁が免責のうえでの嘱託尋問を違法だとした、などという嘘を平気で書いている(9頁、99頁)あたりは困ったものである。チャーチ委員会への「誤配」説も出てくるし。また、外為法違反が当時「現実に法律によって処罰もされていないような形式的な違反」(13頁)などではなかったことも、Q&Aに書いた通り。
外国の裁判所への証人尋問の嘱託に関しても「これを外国の裁判所に対して行う規定は我が国の刑訴法にはない。したがって外国裁判所に対して嘱託して証人尋問すること自体が違法」などと素人を惑わすようなことを書いているのも問題である。「できると規定されていることしかできない」「してはならないと規定されていないことはしてかまわない」のであれば、法律家の仕事はずいぶんと楽になるだろう。昨日判決の出た韓国・台湾の元ハンセン病患者への補償請求訴訟にしても、旧植民地の元患者への補償は(せよ、ともできない、とも)法に規定がなかったわけで、だからこそ立法の趣旨や審議過程に基づく解釈が必要となったわけだ。刑事訴訟に関して外国への嘱託が「できる」とする明文の規定はなかった(そして「してはならない」という規定もなかった)。だからどうした? 「できる」という規定がなければできない、などと不用意に言ってしまってお仕事に差し支えはありませんか、木村先生?
第3章第3節(原書の表記では「三 ③」では「検察官の不当な権力行使」と題して、検事の取り調べや検事調書が厳しく批判されている。何度も書いたことだが一般論としては異論はない。しかし検事経験のある木村弁護士のこと、どうせなら裁判でも本書でも「検事時代に自分がどれだけ不当な取り調べをし、どれだけ調書を“作文”してきたか」を告白すればさぞ主張に説得力が出たと思うのだが…(笑)。
よくわからないのは、著者がこの本を誰に読ませたがっているのか、ということ。というのも第2章では延々と「田中先生」の「人柄」を褒めあげる記述が続くからである。田中が「もらえる金はもらう」男だったことはいまや元側近たちでも証言していることであり、いくら「人柄」に訴えようと収賄を否定する根拠にはならない。むしろ田中の魅力なるものも、簡単に5億円を受けとるような側面と一体であると考えるべきであろう。
また、全体として本書の主張は裁判における弁護側の主張と変わるところがない。というより、紙数の関係で裁判での主張をぐっと薄めたものでしかない。裁判所が斥けた主張を薄めて繰り返しても意味はない。もし本当に田中の無罪を主張するつもりなのだったら、弁護側の主張だけではなく、弁護側の主張を裁判所がどういうロジックで斥けたのかをもきちんと記述し、そのうえで裁判所のロジックに反論しなければならない。「弁護側は○○と主張した、しかし裁判所はそれを認めなかった」というだけでは単なる泣き言である。
冤罪を扱った本がうちには何冊かあるが、例えば島田荘司の『秋好事件』は文庫版で千頁を越える大著である。冤罪批判とは逆の立場だが立花隆の『ロッキード裁判批判を斬る』も文庫3冊で千頁を越える。ロッキード裁判ほどの規模の裁判についてきちんと論じるつもりなら当然それくらいの分量は必要になるのであり、かなり大きめのポイントでA5版、230頁ばかりの本では実現不可能ではないだろうか。

『壁を破って進め』はもう一方の当事者、嘱託尋問のために渡米した堀田元検事の回顧録。堀田検事(当時)は公判にも立ち会っているのだが、本書は嘱託尋問のプロセスだけに時期を限定した回想でちと物足りない。しかしもし同じ紙数でロッキード事件の捜査全体を回顧したとするとその分中身の薄い本になったことも予想され、まあしかたないことなのかもしれない。
この手の回想録でよくあることだが、匿名の協力者、情報提供者を一人の架空の人物として造形しているのだが、そのセンスはちょっと…。
面白かったのは、事件の早期究明を叫ぶ世論や三木総理からの圧力が捜査の障害になったと述懐している点。世論の後押しがなければ捜査が潰されていた可能性があったことを考えれば一方的ではないかとも思うが、当事者の受け止め方としてなるほどなぁというところもある。

Posted: 水 - 10 月 26, 2005 at 09:29 午後          

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