『闇の子供たち』(ネタバレあり)
原作:梁石日(幻冬舎文庫)
監督:阪本順治
出演:江口洋介、宮﨑あおい、プラパドン・スワンバーン、プライマー・ラッチャッタほか
2008年、日本
掲示板の発言[881]から[883]で話題になっていた映画『闇の子供たち』を観てきました。最初、上映館を間違えて無駄足になるというミスをしましたが、そのため原作を読了してから観ることに。以下、ネタバレ的な情報を含みます。まず、脚本と監督の阪本順治氏が(そしてもちろん制作サイドが)ビジネス的にも批評的にもリスクのある題材をとりあげたこと、またこの種の題材を商業ベースの劇映画にすることがはらむ問題に自覚的であったことが映画からうかがえた点については評価すべきであろうし、結果として観客動員も順調であるように思われるのは歓迎すべきことなのだろう。ただ、例えば映画の公式サイトには「これは、「闇」に隠された真実の物語」というコピーが掲げられているわけだが(そして雑誌やネットでのレビューを見てもそうした方向性での紹介がなされているわけだが)、児童買春、人身売買、臓器売買などの問題については(質・量の面で十分かどうかはともかく)新聞をきちんと読んでいるだけでも一定の知識は得ることができるはずで、「闇」のなかで行なわれていることの、少なくとも概要については従来からマス・メディアによって伝えられているわけである。もちろん小説や映画というメディアは、新聞報道とは違う次元のリアリティを観客に与えることができるのだから、このテーマをとりあげることにはもちろん意味はある。だが、問題は「「闇」に隠され」ているわけではないのだ。あるいは、「闇」はバンコクやチェンマイに(だけ)あるわけではないのだ。東南アジア(だけではもちろんないが)における児童買春や人身売買については日本でもそれなりに報道されてはいるのにそれが“知られていない”のはなぜなのか、あるいは知られているのに日本政府の政策が(十分に、などということはなかなかありえないにしても少なくとも例えばタイ政府に対して明確なメッセージ足りうるほどに)変わらないのはなぜなのか。ここにこそ本当の問題はあるのではないか。それこそ日本の観客が考えるべき「闇」であろう。もちろん、これは映画の作り手の責任ではないけれども。このようなかたちでの宣伝が可能であり、そのような宣伝が受けいれられ、そのような宣伝に沿ってこの映画が受容される現実を、この映画がもっと先取りしてくれていたら・・・という思いはある。“大人”の感覚ではつい「目の前の一人をまず助けようとするボランティア」と「見たものを書き、構造を変えようとする新聞記者」との対比で後者に軍配を上げてお終いにしたくなるが、実のところ新聞の国際面なり社会面に何度か記事が載った程度では「構造」なんて変わんないじゃないか、という現実に監督は自覚的であるように思えたので。また、ルポルタージュでもなくドキュメンタリー映画でもなく劇映画であるのであえて言うが、邦画を観ていてがっかりする(というかあまり観ない理由と言ってもよいのだが)ポイントをこの映画もやはり免れていない。ただし、邦画の場合台詞(の多く)が母語であるため、外国映画を観る際には台詞の理解に割かれる認知リソースを別の側面にまわすことが可能になるため、不当に辛い評価になっている可能性はあるが。特に気になったところ、数点に絞って(映画についての大方のエントリより長文で、やたらネガティヴなことを以下で書き連ねているけれども、それもこのテーマを商業ベースの劇映画にするという企画それ自体は評価するがゆえのことで)。・原作よりも重要な役となった新聞記者南部役の江口洋介の演技。2回ある「回想から我に返る」シーンの演技はなに? 終盤のクライマックスで崩れ落ちるシーンもひどい。もっともこれは、子役が足にしがみついているという設定ゆえに(子どもに怪我をさせないようにと配慮すれば)動きが制約される場面ではあるが、演劇ではなく映画なんだからもっと工夫の余地はあったはず。南部自身が実はペドファイルであったという原作からの設定変更は、主として日本人の観客を想定した映画としては間違った選択ではないと思うが(観客も当事者の一人である、ということを強調するための選択として)、ちょっと消化不良だったのではないか。この設定変更を活かすなら、原作のプロットをもう少し刈り込んで、この側面を丁寧に描く必要があったのでは。・同じく終盤の山場の一つ、日本人ボランティア音羽恵子がゴミ収集車に向かって走るシーン。スクリーンに耐える肉体的なプレゼンスがない。これは宮﨑あおいに限ったことではなく日本の若い俳優(俳優じゃないのに映画に出ているケースも含めて)にしばしば感じることなのだが、とにかく弱々しい。弱々しく見えることが必要だからそう演じている(そう演出されている)のではなしに。脚本面でも、ああいうシチュエーションで、人気のない道路に路上駐車した車のなかで連日裏売春施設を見張るという設定(しかも同行者のタイ人NGOメンバーは面が割れているのに)は間抜け過ぎる。これはエイズ感染が疑われる子供を助け出すという場面なのだが、エイズを扱っていながらその観点からみて問題がありすぎ。一方では売春を強いられたことで自尊心を失いつつある少女が音羽にキスを求めることを音羽にとってのイニシエーションとして描きながら、ヤクザに暴行をうけて出血してながらこの少女に接触している音羽が看護婦に治療を勧められても断り、看護婦もそれをあっさり容認してしまっている。・チェンマイのタイ人ボランティア(記憶に間違いがなければ映画と原作では名前が変わっているようだ)がヤクザのスパイだったという設定は原作から受け継がれているのだが、彼が物語の終盤で正体を明らかにし市民運動を潰すシーンの展開も稚拙。警察とヤクザ組織の間に癒着があるにしても警察には警察の利害や面子があるのだから、映画のようにデタラメなやり方で市民集会を監視する警官隊に銃撃戦をしかけ、死傷者を出したのではNGO潰しという目的を達成できまい(しかも自分が警官に射殺されてしまってるし)。映画の大詰めでは主要な舞台の一つである売春施設が手入れをうけ子供たちが保護されるというハッピー・エンディングになっているが(そしてそのこと自体は商業ベースの劇映画である以上否定できない選択だが)、どうせならヤクザのやりすぎと関連づけておけばまだしも脚本上の辻褄はあったはず。また、まだ銃撃戦が続いているのに、子供たちを連れて逃げている音羽を南部が(なんの遮蔽物もない場所で)腕をつかんで引き留め、「日本に帰れ」と説教するのもひどい。・日本で臓器売買の日本側仲介人を取材する新聞記者二人が屋上でヤクザに殴られるシーン。素人考えだけど、それこそ素人相手ならともかく主要紙の記者二人を殴ってすませるなんてことをヤクザがするものか? 警察だって主要紙の記者が二人で「殴られた」と言ってくれば当然無視できず、仲介ルートを潰されかねないわけで。殺してまで取材を封じるつもりがないのなら、警察の介入を招きかねないような脅し方もしないのでは?・日本人カメラマンが裏ルートの臓器移植を取材するシーン、シャッター音は“数枚連写してインターバル、また数枚連写・・・”なのに、指が全然動いてない(シャッターをずっと押してないか、あるいは押しっ放し)。まあこれはカメラマニアの与太話と思ってもらっていいですが。このカメラマン役の妻夫木聡が脅されて腰を抜かすシーンもひどかった。他方、原作との変更点のうち(留保つきで)肯定的な意味で興味深いのは、売春施設の手下の一人、チット(やはり原作とは役名が変わっている)の設定。トニー・レオンにちょっと感じの似たなかなかの二枚目で、映画中の描写でも原作より観客が感情移入しやすくなっている(手入れを受け手錠をはめられ連行される場面では、晴れ晴れしたといってもよい表情を見せる)。この点は、「被害者が後に加害者に転じる」ことがしばしばあるとされる事情への配慮や、日本で制作される映画としては「売らせる」側よりも「買う」側に焦点をあてたいという監督の意思が反映しているのではないだろうか。掲示板でAosho桃色椎茸さんから頂戴した情報によれば、音羽信子のキャラクターへの拒否反応がネットで見受けられるということで、『映画秘宝』の監督インタビューを読むと監督自身それを意識しつつ造形したキャラクターであるようだが、しかし映画中でこの音羽を批判する契機として機能している新聞記者も相当稚拙ですよ、半分は原作のせいだけど。個人的には、エンディングクレジットで流れる桑田佳裕の歌詞のセンスの方が受け入れ難い(悪い意味でロマン主義的)。追記:あ~もう2点ほどひどいところを思いだしてしまった。闇手術をやる病院を取材している記者とカメラマンは、自分たちの取材が目を付けられてることを自覚してるわけですよ。だからタクシーに病院前を走らせて車窓から写真を撮ろうとする。ところが、病院を通り過ぎたところで車を止めさせて、タクシーの外で二人で話するんですよ。カメラマンはカメラをもったまま。見張りを警戒してるんならそんなとこで立ち話しちゃいかんだろうが。他にも、タイ人の情報屋を通じて医師にコンタクトをとろうとするシーンも路上なんですな。警戒心無さすぎ。これにせよ他のシーンにせよ、登場人物たちの甘さを意図的に表現しようとしたんだとすれば見事に成功してるけどw
Posted: 水 - 9 月 3, 2008 at 12:41 午前
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