『黎明の風—侍ジェントルマン 白州次郎の挑戦』
作・演出:石田昌也
出演:轟悠、大和悠河ほか(宙組)
ちょっと前に電車のなかでこのポスターを見かけて、ヅカマッカーサーのインパクト(しかも演じるのが大和悠河ですよ)にすっかり打ちのめされたことがあるのだが、そんなことは露知らない知人から「宝塚がこういう素材をどう扱うのか面白そうだから観にいかない?」と偶然誘われたので、行ってきました。人生初の宝塚。あらすじはこちらをどうぞ。数年前に講談社から『白州次郎 占領を背負った男』が出版された際にかなり目立つかたちで平積みにされているのを見て、「ははぁ、右側から占領期の記憶を書き換える試みか」と思い、今回調べてみるとこの本が山本七平賞を受賞しているのを知ってなるほどね…と納得したのだが、この作品も右派・保守派が占領期を再解釈する試みをエンターティンメントの衣にくるむ努力、そうした努力がはらむ基本的な矛盾の処理(とその成否)という観点から、実に興味深かった。公演期日がほぼ終わりかけなので、以下ネタバレ的な記述についても特に断らないのでご注意ください。さて「右側から占領期の記憶を書き換える試みがはらむ矛盾」とは何か? ひとことで言えばそれは「アメリカ」の位置づけである。終戦工作~占領期についての近年の研究成果は、東京裁判にせよ新憲法にせよ占領政策にせよ、アメリカの一方的な押しつけというより日米合作と言ってよい側面が少なくないことを明らかにしている。あからさまに史実を無視する決意をするのでない限り、アメリカを単純な敵役にすることはできない。また政治的にも、アメリカを敵役にしたストーリーは右派・保守派の間で広く受容され得ない。さらに、主人公たる白州次郎には“イギリス留学の経歴を活かしてアメリカ人にも一目置かれた男”という属性が付与されているのであるから、主人公のキャラを立たせるためにもアメリカを単純な敵役にすることはできない。劇の冒頭に「日本はアメリカの植民地になったようなものだ」といった趣旨のナレーションがおかれて以後のストーリーの文脈が提示されるわけだが、この保守派のルサンチマンは(自分から仕掛けた戦争で負けた結果である軍事占領を植民地支配と同列視するという往生際の悪さは別として)いくつもの点で史実に反するのみならず、戦後の保守派の一貫した基軸である親米路線と矛盾する。他方、白州を演じるのは専科の轟悠で宙組トップが演じるのがマッカーサーなので、マッカーサー(アメリカ)が単純な敵役ではなく最終的には心の通いあう敵である、というのはスターシステムが要請するところでもある。ただミュージカル形式ではGHQと日本側との駆け引きの機微を描くのは難しいから、マッカーサーが白州の要求をサクサク認めてしまう流れが続いたうえで、白州の一番の見せ場が土下座をするシーン(いかんせん占領期が主たる舞台ですからなぁ)である、というのはカタルシスとして微妙なところだろう。アメリカ側には真珠湾攻撃で親族を失った軍人を、日本側には原爆で親族を失った軍人を登場させるなど、非常にわかりやすいバランスをとっている反面、吉田茂繋がりで麻生太郎の名前が出てくるなど、どういうあたりに目配りしているかもミエミエ。もっとも問題になる憲法9条と再軍備の扱いだが、「押しつけ憲法」論に対して「国民も歓迎した」という吉田茂の反論を提示したうえで「50年後、100年後はともかくいまは改憲すべきでない」と着地させ、朝鮮戦争に関して「北朝鮮を放置すると50年後、100年後に後悔することになる」という後知恵の予言をしてみせるあたり、自民党タカ派の主張をオブラートに包む演出としては上手くまとめたかな、という印象。上でリンクをはったポスターの右端真ん中あたりにオレンジ色のロゴ(「関西から 文化力」)があるが、これは文化庁肝煎りの企画。いやなかなか油断できませんな。稲田議員にならって公演前の公開練習見学を要求すべきだったかも(笑)「東京ブギウギ」をはじめとして戦後の風俗が散りばめられるなかに、熊沢天皇が登場するのが興味深い。昭和天皇の姿が極力目立たなくされているだけに、なおさら。
Posted: 火 - 3 月 11, 2008 at 11:42 午前
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