「科学論争」ブーム?
ココログのニュースで「どうも最近のブログ界、特に『はてなダイアリー』で科学論争が巻き起こっているようだ」などと紹介されるまでになっている件について。疑似科学と歴史修正主義とを「同じ」問題としてみる視点の意義を何度か強調してきたわけだけれど、前者の問題にコミットしている人の中には後者のそれと接続することを嫌う人がいるかもしれないので、今回はこっちで書く。なお、“「同じ」問題としてみる視点の意義”というのはもちろん“「別の」問題としてみる視点”に意義がないということを意味しない。さて、今はなき『論座』の08年5月号で東浩紀がまたしても南京事件をダシにしていることを
mahounofuefuki
さんが5月の段階で問題にされていることをつい最近知ったのだが、はなしの文脈は近々図書館でバックナンバーを探して確認するとして、引用された文言から判断する限り大塚英夫との対談を新書化した『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)での発言と軌を一にしたものと言えそうだ。「疑似科学批判」への批判にも同様な論法が使われているのをみかけるのだが、歴史認識論争からの撤退と疑似科学批判からの撤退とを正当化する議論がそろって無視しているのは次のような事実である。すなわち、議論の対象となる歴史修正主義的言説や陰謀史観、疑似科学的言説の多くは(もちろんすべて、ではないのだが)その分野の専門家であればはっきり白黒が付けられる問題であるだけでなく、素人であっても少し調べてみれば(ってのはググってお終いにすることじゃないですよ)それとわかるようなものだということ。例えば「なんでもコミンテルンの陰謀」説とか。さらに言えば、「水伝」なんて義務教育の範囲の知識に照らしても「なんかおかしい」と疑問をもつことは最低限可能なはずだし、大学で「自然科学概論」的な講義を受けるとか新書レベルの知識があれば(まあ最近は新書にもずいぶんとあやしいのが混じってるので問題なんだけど)どこがおかしいかはっきり表現できるはず。まして教育関係者が見抜けないなんてのは大問題だ。もちろん、いわゆる南京事件論争を例にとればまっとうな専門家の間でも議論が分かれるような、疑似問題ではないものが存在しているのは確かだが、“究極的には科学と疑似科学の(歴史と偽史の)境界はあいまい”といった議論が必要になるはるか手前の地点でアウトになってるような主張がマスメディアや公的な性格をもつ講演会等に入り込んでいるのが現状なのだ。
Posted: 火 - 11 月 25, 2008 at 05:11 午後
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