精神鑑定の評価(追記あり)



私は普段、私人が犯した刑事犯罪についての報道は極力読まない、見ないようにしているのでこの事件についても検察、弁護側双方がどのような主張をしたのかについては、ごく限られたことしか知らない。ということを前提に、ごく限られた論点について。

時事ドットコム 2008/04/28-10:54
歌織被告に懲役15年=完全責任能力認める-夫殺害切断・東京地裁

 外資系会社社員三橋祐輔さん=当時(30)=殺害事件で、殺人と死体損壊などの罪に問われた妻歌織被告(33)の判決が28日、東京地裁であり、河本雅也裁判長は被告の完全責任能力を認め、懲役15年(求刑懲役20年)を言い渡した。弁護側は殺人について、急性の精神障害だったとして無罪を主張していた。
 公判では、2人の医師が殺害時の被告について、短期精神病性障害で心神喪失状態だったと診断。責任能力の有無が最大の争点だった。
(…)

たまたま前日に、「責任能力判断の前提となる精神障害の有無及び程度等について、専門家たる精神医学者の鑑定意見等が証拠となっている場合には、これを採用し得ない合理的な事情が認められるのでない限り、裁判所は、その意見を十分に尊重して認定すべきである」という趣旨の最高裁判決に関する「Matimulog」のエントリを拝見していたので少し気になった次第。
もちろん、「その意見を十分に尊重して認定すべき」は鑑定意見をそのまま判決でも採用せよということを意味しないし、複数の医師が実質的に異なる鑑定意見を出すことだってあるわけである。町村氏もエントリの結びで「ただ、鑑定を証拠として採用した上で、さらに諸事情との総合評価により判断しているので、事実認定が基本的に鑑定に依存するということになるわけではないのである」と断っておられる。ただこの裁判の場合、検察側の申請した鑑定医も「心神喪失状態だったと診断」したという事情がある。問題の最高裁判決も、やはり弁護側、検察側双方の鑑定が「心神喪失」としたケースについてのものだった(ただし判決は無罪ではなく、高裁への差し戻し)。


追記
上で紹介した町村氏のエントリに対してものすごいコメントがついている。

精神障害有と判定したなら、その証拠を出した弁護側が罪を償って出所した後の加害者の行動に責任を取って欲しいと思うのですが、その辺のバランスって取れているんでしょうか?

刑事裁判で問題になるのは犯行時における責任能力の有無であって、その点につき弁護士(「弁護側」であれば被告自身も含むことになるが、「加害者」には別に言及があることから判断すると弁護士とか被告の支援団体などを想定しているのであろう)が何を主張しようが出所後なり裁判後の被告(元被告、元受刑者)の行動に責任をとらねばならない謂れなどないわけだが(さらにいえば、「精神障害有」とする鑑定を証拠として申請するのは弁護士であっても「精神障害有と判定」するのはあくまで医師の役割であり、その鑑定意見を判決に反映させるかどうかを決めるのは裁判官なのだが)、このような主張が「バランス」概念に支えられているところは、レイコフの道徳概念システム論との関わりでなかなか興味深い。
もちろん、刑法39条の運用実態なり、精神鑑定の実態について個別の事件に即して議論することは可能でもあり意味のあることだろう。また刑法39条をめぐる原理的な議論についても、傾聴すべきものがないではない。しかし「加害者」の未来の行動に対して「弁護側」に責任を負わせようという発想は、ほとんど「原始心性」丸出しじゃん、と言いたくなる。もちろん、殺人事件の被害者遺族にとって、原因(加害者)が判明しているのに処罰が行なわれないことに対する不条理感は堪え難いものであろう。しかしそうした不条理感は、責任能力がないとされた被告による殺人の被害者遺族だけが強いられるものではない。自然災害の犠牲者遺族や戦争被害者の遺族の多くも同様であり、また例えば水俣病の患者や遺族もまた長らくそうした不条理感を強いられていた(いまでも十分払拭されたとは言い難い)のである。ただひたすら「バランス」だけを追及するならひとは「地震の神」を裁判にかけねばならなくなるわけだ。他方、責任能力に欠けることのない主体が起こした戦争の被害については、しばしば「戦争だから仕方ない」とされてしまうのである。上記のコメントをした人物が過去に南京大虐殺についてどのような発言を行なったかについては、こちらをご覧いただきたい(同一人物であろう、という前提)。

Posted: 月 - 4 月 28, 2008 at 11:21 午前          

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