やはり取り調べ過程の完全録画は必要



「自分のための備忘録」のコメント欄で少し触れたことに関連して。また別館でのこのエントリとこのエントリとも関連して。

「人は自分で思っているほど、自分の心の動きを分かってはいない」 これが現代の心理学および関連諸学の「セントラル・ドグマ」である、と心理学者の下條信輔氏は言っている(『サブリミナル・マインド』、中公新書)。あるいは現代哲学における大きな論点の一つが「自己の明証性」批判であること。こうした知見に照らすなら、犯行の動機や犯行に対する“反省”について被疑者・被告が語ることは、単純に彼の「内面」の反映であるはずなどなく、取調にあたった警察官や検事、接見した弁護士が何をどう問うたかに大きく左右される。自分でも何が何だかよくわからない、あるいはぼんやりと掴めてはいるのだが上手くことばにならない。そういうときに検事が、あるいは弁護士が「問い」のかたちをとってある可能な物語を示唆する。被疑者・被告がそれに直ちに飛びつくかどうかは別として、そのように提示される物語に触発されて彼は語り始める。露骨な「誘導尋問」は批判の対象となるけれども、厳密な意味で誘導ならざる問いなどない。結果の重大さに被疑者・被告が動揺している時、彼の精神的発達が十分でない場合はなおさらである。被疑者・被告の供述はすべてその供述をとった者との共同作業である。

供述が被疑者と検事(ないし弁護士)との合作であると言ったからといって、それが間違いであるというわけではない。「自己の明証性」を疑うならばそのように「間違い」と断じる根拠もまた失われるからだ。とはいえどれもがみな同じように正しいということもないのであって、出来合いの物語に落とし込んで一丁あがりという安易な供述もあれば、ちょっとした違和感をも見落とさずに丁寧につくられた供述もあるだろう。日本における警察官面前調書や検事調書の問題点としてしばしば指摘されるのは、取調官と被疑者のことばを一問一答ごとに記録するのではなく、取調官がまとめた書類を読み聞かせて(冤罪事件などではこの読み聞かせを端折ることがあるとも指摘されるが)署名・捺印させるというスタイルである。否認事件だとこうした調書における供述の「任意性」が問題になるわけだが、煎じ詰めれば取調官と被疑者・被告の共同作業を第三者が検証できない、というところが問題であるわけだ。取調官は正確にはどのように質問し、被疑者は正確にはなんと答えたのか。あるいは「なに」以上に「どのように」答えたのかが重要な情報になることもある。取り調べ過程がすべて録画されていれば、被疑者が自発性を保ちつつ取調官との共同作業を行ったのか否かはかなり明らかになるだろう。「すべて」というところが大切なのであって、警察・検察が目論むような部分的な録画など百害あって一利なしである。光市事件の差し戻し審でも被告の供述の変遷が争点となったわけだが、取り調べ過程がすべて記録され、弁護側*と裁判官とに公開されていれば、事情は随分と違ったはずだ。もちろんその結果は「弁護側も納得せざるを得ない死刑判決」だったかもしれないし「検察も納得せざるを得ない無期懲役」だったかもしれないし、あるいは「どう判断してよいか分からない、ということで多くの人間が一致する」という結果だったかもしれないわけだが。

* (追記。アスタリスクだけつけて註を書き忘れていた。)最高裁段階から事件に関与した弁護団は、事件直後の最も重要な時期における被告人の供述態度について限られた情報しか入手し得なかった。被告人本人の記憶だって、拘禁状態にある人間が数年前の出来事についてもつ記憶であるため相当加工されている可能性がある。

Posted: 金 - 4 月 25, 2008 at 08:59 午前          

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