一人口で食えなきゃ二人口でも食いかねる時代



落語なんぞで独身男に結婚を勧める時に出てくるのが「一人口は食えぬが二人口は食える」という諺である(もちろん昔は実生活でも使われたんだろうが、私の世代だとさすがにリアルで聞かされることはなかった)。そのこころはもちろん、独り者は外食やらなんやらで無駄金を使うが、結婚して家で食事をするようにすればむしろ食費は安くつくというわけで、性的分業を前提にしたはなしである。
ところがこれだけ外食産業、中食産業が発展してくると一概に自炊の方が安いとも言えなくなってくる。中国製餃子への農薬混入事件をうけて朝日新聞(だったと思うけど)が餃子を自宅で作った場合輸入冷凍食品と比べて何割高くつくとかいった記事を書いていたが、例えばニラ一束がうちの近所の生協だと普段は198円だったりするわけで。ネギだって普段は一束(白ネギなら2本)で198円。ソバ食うのに薬味にネギを…と思ったら198円いるわけですよ(もちろん、1回で使い切るわけじゃないけど)。特売日を狙って買えばもっと安くつくけど、こちらが考えた献立に必要な食材が同時に特売になるとは限らない。その日特売になってるものばかりを組み合わせると今度は献立が制約を受けるし。となると残るは安い時に買いだめしておくという手だが、そうなると買い物の荷物も大きくなるし冷蔵庫の在庫を記憶しておいてその日その日の献立やら買い物を考えねばならず、片手間ではすまなくなってしまう。いまや専業主婦(主夫)なんて高所得者層だけに許された贅沢ですしな。

今週の『週刊ポスト』では曾野・巨塊を巨魁と誤読・綾子センセイが「緊急発言! 日本の母親は子供にエサを用意できない動物だ」と題して登場、「家族分をまとめて買って調理すればかなり安上がりのはずです」とおっしゃってる。そりゃま、不可能じゃないでしょうよ。ただ安けりゃよいというのなら困難ですらないかもしれない。しかし「『忙しくて暇がない』という母親もいるようですが、私は家で原稿を執筆している時ほど料理を作ります」なんておっしゃるが、同じ忙しいのでも外ではたらいているのと自宅で仕事しているのとでは比較にならんでしょう。家で仕事してるなら、料理にかかる時間だけ捻出すればよいわけです。しかし勤め人が家で食事を作ろうと思えば食事の時間に家に帰ってこなきゃならんわけで。さすがにこの程度の反論は予想していたとみえて「私の知る限りでは、プロとして仕事を持っている人ほど、短時間で子供に料理を作る工夫をしています」と付け加えてます。「あんたの見聞がどれだけ一般化可能なの?」とか「そういう人は時間はともかく金はあって、安い食材探しに時間を割かずにすむんじゃないの?」とかいろいろ思いつくけどここは「仕事で高い能力を発揮する人が家事(料理)も合理的にこなす傾向」というのを認めたとして、優れた能力を持つ人間に可能なことを万人に要求するのは処方箋として意味がないだろ、と。だいたい、みんながみんな極力自炊するようになったとしたら、その経済的な影響たるや大変ですよ。ま、現実にはそんなことにはなりそうにないですが。

仮に物理的に同じ時間が与えられておりスキルに違いがないとしても、動機というか意欲の問題が残ります。教育学者や家族社会学者はいわゆる「格差問題」論議において「希望格差」(山田昌弘)、「意欲格差」(刈谷剛彦)といった問題提起をしていますが、同じことが家事労働についてもあてはまらないだろうか? と。

そうそう、曾野センセイはニュースをみていて「テレビの取材に答える主婦たち(…)の中に『もうこれからは自分でギョーザを作ります」という気概あることをいう人がいなかった」ので「愕然」としたんだそうです。ほんの数秒、ないし数十秒にまとめられたフッテージの中でそうしたひとが登場しなかったからといって「愕然」としちゃうとは「この慌てんぼさんっ!」ですが、時事通信によれば「ギョーザ手作り器」なるものの注文が殺到してるそうですから、自分で作るという「気概」をもったひとはちゃんといるみたいですよ。もっとも今度は「手作り器」を使うのが気に入らないかもしれませんね。ま、私も「餃子は包むのが楽しいんじゃないか」とは思いますがね。

Posted: 水 - 2 月 13, 2008 at 01:44 午後          

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