『自白が無実を証明する』


浜田寿美男、『自白が無実を証明する 袴田事件、その自白の心理学的供述分析』、北大路書房

この一週間あまり、ほぼ毎日のように大型書店によって捜していたんだけど本日ようやく買えた。新刊なのになぁ。書店も商売だからしかたないとはいえ、どうでもいい本・読めば読むだけ頭が悪くなる本は山積みなのに…。

今日買ったばかりということは、はい、もちろんまだ読んでません。大枚はたいて買った『自白の研究(新版)』(同じく北大路書房)もぱらぱらと眺めた程度だし。読んでもいない本をなぜとりあげるかと言えば、いまの「積ん読」在庫を考えると実際に読むことができるのは当分先になりそうであること、読んでエントリを書く頃には店頭での入手が困難になっている可能性が高いこと、である。痴漢事件などについては昨今も「冤罪」問題がしばしば取り沙汰されているが、死刑判決の下った冤罪事件なんて敗戦直後の混乱期の事件ばっかりじゃないの? というイメージもあるように思うが、本書でとりあげられている袴田事件は1966年、日本がかなり豊かになってきた時期に起きたものである。自白をとることに主眼をおいた捜査手法、俗にいう「調書裁判」などの問題はいまだ本質的には変わっていない。裁判員精度のスタートを控えて取り調べプロセスの可視化の必要性が議論されているが、検察官が必要と認めた事件の、必要かつ相当と判断した部分だけを録画する、警察はビデオ記録を行なわない、というふざけ切った対応で司法当局がお茶を濁そうとしている* いま、本書をひとりでも多くの人に読んでもらいたいと思ってのこと、でもある。ま、お前がまず読め、って言われそうですが。

タイトルが意味しているのは(著者の過去の業績からの整理だけど)こういうこと。無実の人間が自白を迫られる場合、犯行の様子を(当然ながら)知らないために辻褄のあわない供述が生まれる。もちろん捜査官はそのような場合、「思い違いじゃないのか?」「もう一度よく思い出してみろ」などと誘導して(誘導という意識はたいていの場合ないわけだが)、捜査官の知識にあわせた供述を得ようとする。しかしながら時として、捜査官も辻褄のあわない部分を見落とすことがあり、法廷に提出される供述調書には無実を示す痕跡が残されていることがある、というわけ。供述調書の心理学的分析を通じて「無実の証拠」をあぶり出そう…という試みである。

ちなみに、いわゆる「百人斬り」裁判での被告の弁明に関して逆方向の(無実の申し立ての中に有罪の証拠を見いだそうとする)心理学的分析を行なっておられるのがタラリさんのこのコンテンツである。

* もっとも、捜査手法や裁判のあり方を改革するには制度的・財政的な裏づけがなくてはならず、現場の人々の努力のみを要求するのが不当であることは重々承知している。捜査費が裏金にまわらずに本来の用途にちゃんと使われるようになるだけでも、ずいぶん違うんじゃないかなぁ。

Posted: 月 - 10 月 23, 2006 at 09:05 午後          

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