ヴィクトル・スタルヒン



ヒストリーチャンネル・ジャパンの「20世紀のファイルから【特集:第二次世界大戦】 白球は戦火をこえて〜野球人スタルヒンの生涯」を観ているとなんともやりきれないエピソードが。旭川中学在学中の34年、訪米する全日本チームのメンバーに選ばれるが、本人は旭川中を甲子園に導くことの方を望んでいた。しかし、父親の起こした殺人事件(これが影響してかスタルヒンは生涯無国籍であった)を持ち出し「国外追放」をちらつかされた結果、やむなく職業野球入りした、というのである。当時の新聞に「「国外追放」 必要以上に強調 地元警察も憤慨」という見出しの記事が掲載されている。外国人や犯罪者の家族への偏見が今以上に強かったであろう当時ですら、汚いやり口と映ったようだ。えっ? どこの球団かって? 決まってるじゃあないですか。

その後、太平洋戦争中のスタルヒンの苦労はよく知られていよう。戦後はその某球団に復帰することなく(できず?)、54年に高橋ユニオンズ、ではなくて55年にトンボユニオンズ(くまさん、ありがとうございます)で現役引退。

豊田泰光が書いていたエピソードが印象に残っている。豊田のルーキーイヤーだから53年、スタルヒンが大映在籍時のことだろう。ルーキーが往年の大投手からホームランを放ち意気揚々とベンチに帰って来ると、先輩たちに大目玉を食らった、というのである。「スタちゃんを打っちゃイカン」と。少しでもスタルヒンに現役を続けさせてやろうという、ヴェテラン選手たちの一種の片八百長だったのであろう。シーズンの後半、ルーキーの本塁打記録が視野に入りだしたころ、再びスタルヒンと対戦。困って先輩に相談したところ、さすがに記録に配慮され「打ってよか」と許可を貰ったという。

Posted: 水 - 8 月 16, 2006 at 05:49 午後          

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