反復されるパターン


「今後の課題(19日追記)」コメント欄と「野良猫の備忘録——北国出張版」、「日中戦争の責任論とか」での野良猫さんにお答えする

迂闊と言えば迂闊なはなしなのだが、以前にも「他人のブログにコメントした野良猫さんに私がコメントした」ことがあったのを思い出した。jimusiosakaさんの「jimusiの昼寝」というダイアリーでの「奇妙な資料分類法 続き」というエントリでのことである。なにしろひと月以上前のことであるうえに、私のコメントはスルーされてしまっていたので(笑)、我がことながらあまり印象に残っていなかったのである。しかしながら、そこでのやりとりを改めて見直してみると、野良猫さんが毎度同じことを繰り返しているのがよくわかる。
jimusiosakaさんに対しても野良猫さんは「選り好みせずに本を購入」せよと(そして私に対してとは違って「身銭を切って書籍を買」えとも)要求しておられるのだが、ぶっちゃけて言えば野良猫さんこそが「選り好みせずに本を購入」する必要があるんじゃないか、という印象を私は持っているわけである。それゆえに私は

はじめまして。野良猫さんは「選り好みせずに」「身銭を切って書籍を買っ」ておられるようですから、ぜひとも「南京大虐殺(ないしホロコースト)はなかった」と主張する人々以外に例の資料分類法を採用しているケースがいかにふんだんにあるのかをご教示いただきたいものですね。

とコメントしたわけである。ここで「例の資料分類法」(「資料」は「史料」の誤記)と言われているのは、東中野修道教授が最近復活させた(笑)、史料を一等から六等に分ける分類法のことである。それこそ「選り好みせずに」歴史学の文献を読んでいれば今日この分類法を用いるのがきわめて限られた人物たちであることは明白なのであって、野良猫さんのように「同様の史料を分類するやりかたは「戦争論(小林よしのり)」でも紹介されています」などと言ってもなんの弁解にもならないのである(小林よしのりが東中野修道をベースにしているのは明白だから)。もし野良猫さんが「選り好みせずに」文献を読んでおられるのなら、一等〜六等という史料分類法などを擁護することの愚は簡単に分かるはずである。ちなみに、東中野教授が『ラーベの日記』の信頼性を貶めるべく、自ら依拠している史料分類法に照らせば「ゴマカシ」と言うべき分類を行なっていること、東中野教授の「ラーベ日記の徹底検証」が板倉由明氏によって、ほかならぬ『正論』上で批判されていること(平成10年6月号)は東中野ウォッチャーなら知らぬ者はいない事実である。
板倉由明と言えば「マボロシ」派を除けば南京大虐殺の犠牲者数として最も少ない見積もりをしている論者の一人である(軍民あわせて1万から2万説)。野良猫さんは「日中戦争の責任論とか」において

南京事件というもの自体、終戦時の戦犯裁判に必要だったためにデッチあげられたものだと考えています。

とおっしゃり、私の「今後の課題(19日追記)」というエントリへのコメント欄では

「南京事件」とは、戦闘のさなかに起きた誤射・国民党兵士による自国市民への殺害事件などで発生した犠牲者を、全て日本側の責任という形で戦犯裁判に利用した、極めて「政治的」なものだったと考えています。つまり「南京事件」は、ほぼマボロシだったという位置づけです

と書くなど、「マボロシ」派であることを(私に対しては初めて)明言されているわけだが、私に対しては「具体的に」数字を語れと要求するのに引き換え、「不当に殺害された中国人はただの一人もいなかったとお考えなのですか」という私の問いに対してはあくまで正面から答えることを避けていて、まことに秦郁彦(犠牲者4万人説)の観察通りのパターンである。板倉由明や秦郁彦が史料として用いている偕行社の調査でも民間人に万の単位で犠牲者がでていることは明らかになっているわけで(「偕行社」がどのような性格の組織であるか、野良猫さんはよくご存知だと思うが)、要するに政治的イデオロギーの左右を問わず職業的な歴史家からはまったく支持されていないのが「マボロシ」説であるわけだ。これまた野良猫さんこそが「選り好みせずに」文献をあたる必要があるのではないか、と考える根拠である。

さてここで、南京事件の犠牲者数に関する私の見解について。といっても、歴史学における訓練を受けたわけでも実際に調査にかかわったわけでもない者としては、しょせん「南京事件に関する各論者の主張をどう評価するか」というものでしかないことをお断りしておく。
第一に、南京事件に関しては犠牲者数の問題は私にとって二次的な問題でしかない。この点については青狐さんのブログでコメントしたので転載しておく。

y-alさんへ

bluefox014さんとは違って、私は意図的に『南京大虐殺」という表現を用いています。

>”大”という言葉は主観的で、人それぞれで”大”と感じる人数は異なりますし、

これについては保守派の歴史家、秦郁彦氏が面白いことを書いています。いわゆる「マボロシ」派が、被害者数は「きわめて少数」というのみで「具体的な数はいわない」ことを指摘したうえで、「推測するに、百人や千人のレベルでも、現在の常識では「大虐殺」と言われかねないリスクがあるのを、彼らは自覚しているからだ」、というのです(『現代史の光と影』、pp20-21)。職業的な歴史家のほとんどは少なくとも万のオーダーで不当な殺害があったことを認めていますから、別に「現代の常識」に訴えずとも「大虐殺」と称して不思議はないわけです。そもそも、「大虐殺」という言い方はあっても「中虐殺」とか「小虐殺」とは言わないことからわかるように、「大虐殺」は単純に数的に虐殺の規模が大きいことを意味する表現ではない、むしろ「南京大虐殺」は一種の固有名詞であると考えるべきだ、というのが私の考えです。固有名詞であるならば”命名の権利は誰にあるのか?”ということが問題になります。「マボロシ」派のように極端に少ない(しかし具体性のない)犠牲者数を主張するのでない限り、「被害者が正確には何人であったのか」よりも「命名の権利者は誰か」の方がこの事件の呼称を考えるうえでは重要ではないでしょうか。』 (2005/11/19 00:28)

いくつか補足を。まず前提として、「民間人の不当な殺害などほとんどなかった」とする主張を私は信じない。きちんと数字と根拠を挙げて犠牲者数を論じている論者はみな万のオーダー(ないし万に近い数千のオーダー)で不当な殺害があったことを認めている。その意味で、いわゆる「マボロシ」派はそもそも「主張」の体をなしていないと考えるからである。またこのコメントでは言及しなかったが、南京事件に関してはいま現在個人としての加害者への責任追及や犠牲者(遺族)への補償が問題とされていない、ということも「数」を二次的な問題だと考える理由である。被害への補償が要求されているのなら、なるほど犠牲者が「ほとんどゼロ」なのか、1万人程度なのか、4万人程度なのか、10万人程度なのか、20万人程度なのか、30万ないしそれ以上なのか…はきわめて重要な問題となろう。だが事実はそうではないし、「犠牲者が30万人なら非道なことだが1万人程度ならどうということはない」などとは言えないからである。
次に、「数」を問題にする場合に、「絶対に確実な犠牲者数」「十分合理的に推定できる犠牲者数」「根拠は十分ではないが、可能ではある犠牲者数」のどれを採るかという問題がある。個人の責任追及や被害補償が問題になるなら「絶対に確実な犠牲者数」をベースにすべきだという主張に理はあるだろうが、歴史記述としてそれが妥当かどうかは別問題で、むしろ「十分合理的に推定できる犠牲者数」をベースにする方が妥当であろう。
そのうえで各論者の犠牲者数推定についての私見を述べるなら、板倉説はあまりに過少で、これはむしろ言い逃れの余地のない、「絶対に確実な犠牲者数」として評価すべきではないか、「十分合理的に推定できる犠牲者数」は秦郁彦説を下限とし笠原十九司説や藤原彰説などを上限する(つまり20万近く)、というものである。中国政府の見解については「可能ではある」けれども現時点で(日本側の)歴史記述として採用する必要はない。

ちなみに野良猫さんがこだわっている「中国側の主張にどう対応すべきか」という点について。「30万」ないしそれ以上の数字が中国にとって政治的なシンボルとなっている現状ではこれを「十分合理的に推定できる」数に改めさせることは困難で、これはたしかに中国側に課された課題ではある。ただ、ユリアさんのブログでもコメントしたことだが野良猫さんは日本の現代史家の努力にろくに注意を払っておられないようだ。30万人説を否定する日本の研究者は自らの研究成果をきちんと中国側に伝えているのである(共同シンポジウムなどの場で)。さらに、中国が「30万」という数字に固執することに関して日本にも責任があるのは、まず第一に事件直後に日本軍がきちんとした調査をしていなかったことである。記録からは軍首脳が“不祥事”の存在を認識していたことは明らかであり、そうであれば旧日本軍自身の論理にしたがって調査が行われるべきであった(憲兵はそのために存在しているのであるから)。そうしておけば今日(さらには戦犯裁判の際にも)もっと胸を張って過大な数字に反論できたはずである。野良猫さんは

 本来ならば「外交カード・反日政策」といった都合から切り離して、日中合同で学術的に調査されるべき題材です。

とおっしゃっているが、「本来」というのであれば旧日本軍自身が調査しておくべき事柄だったのである。第二に、野良猫さん自身を含む「マボロシ」派の存在が中国側をいっそうかたくなにしていることは想像に難くない。「学術的」に犠牲者数の見直しをおこなう議論だけが展開されているのなら、中国側も反論しにくくなるのは目に見えている。
ついでだから言っておくと、南京大虐殺の存在そのものは認める人々の間でも「何度謝ればすむんだ」という主張はなかなか人気があるようである。しかしこれについても、日本政府が過去に行なった謝罪をわざわざ台無しにしてしまうような人々が日本に(さらには政府や与党議員内に)いることが問題である。日本政府が「戦争責任」に関する認識を表明するたびに、それを否定する発言が与党議員などから行なわれる…というパターンが繰り返されているわけで、要するに「戦争責任」を否定する人間が現われるからこそ中国は「謝罪」を外交カードとして使えるのだ、ということを指摘しておこう。

前置きが長くなったが、以下、野良猫さんのエントリとコメントについて触れておこう。すでに上で述べた論点については再説しない。まずは「日中戦争の責任論とか」から。

 ふむ……。「普通」という言葉も幅が広いようですが、歴史や戦争責任を題材にたくさん記事に書いている方と、日常生活ネタを主体としていて「靖国」についてたまたま触れた方とでは、同じ分類にはできないと思います。たとえば、自分の気に入らない記事を削除させるとか、ブログ閉鎖に追い込むとか、あるいは自分と同じ思想にさせる……というような「政治的」な目的があるのなら別ですが(困ったことですが)、あえて手を出さないか「ほどほど」で切り上げるのが大人の度量ではないでしょうか。

このエントリを書く前の段階で708ある記事のうちいくつで「歴史や戦争責任」を題材としているか私自身も覚えていないのだが、少なくとも主観的には「戦争責任」は中心的な題材ではなかった(「今後の課題」としては重視しているが)。まあそれはどちらかと言えばどうでもよいことで、私がユリアさんのブログに投稿したコメントは3つしかない(野良猫さんが私のブログに投稿したコメント数、ユリアさんのブログに投稿したコメント数より少ない)ことにご留意いただきたい。野良猫さんのエントリは11月21日午前5時付けであるが、その時点でユリアさんの当該エントリについていたコメントの数は59。そのうちの3つである。私の最後のコメントは20日の9時42分付けだが、今のところ23日午前3時までに75のコメントがついている。75コメント中のたった3つ、しかも最後にコメントしてから16もコメントがついているのだから、私の感覚ではこれはまさに「ほどほど」で切り上げたということに他ならない。

 そういう語り合いを相手が望んでいるかどうか、または上手く話を膨らませられそうか。そうした状況を見極める能力と「言いたい気持ち」を上手く抑制して文章にする自制心が、ブログ上で議論をする際に必要な能力だと考えます。

これについては自分の非才を認めるにやぶさかではないが、野良猫さんもご自分の胸に手を当ててお考えになってはどうか。そう言えば jimusiosaka さんのダイアリーでは「山猫」さんからこんな風に評されていたのを思い出す。

# 山猫『はじめまして。野良猫さんは多くのことを語りすぎです。直接関係のないことをあれこれ語る。他人のブログで自己表現するのは見苦しい。しかもワキが甘い。そこを突かれるとさらに別の話を始めて話題を拡散させる。悪循環です。ご高説はご自分のブログでやればいい。節度を保てぬならコメント欄に書き込まないことです。』 (2005/10/10 19:09)

「上手く話を膨らま」すことと「勝手に話を膨らま」すことの違いはお分かりですよね? 私の中心的な関心は「20万人しかいないところで30万人殺せるわけがない」といったいい加減な言説が流通するのを少しでも食い止めたい、というところにある。上述したように、それが中国側にも犠牲者数の見直しを迫るうえで必要なことだ、という情勢判断も含めてである。にもかかわらずここのコメント欄でもずいぶんと「直接関係のないことをあれこれ」語っておられますな。それが知的刺激に満ちていればまだよいのだが、いまさら小林よしのりを薦められてもねぇ…(笑)

 現状ですと「南京事件」について懐疑的な記事を書いたブログは、軒並み青狐さんから糾弾されそうで怖いですね(苦笑)。

「南京事件=マボロシ」説について懐疑的な記事を書いたブログにせっせとコメントを書く野良猫さんのような方もおられるわけだから、これはどっちもどっちでしょう。ユリアさんの当該エントリをみれば、ブログ主がコメント欄をコントロールできなくなるような、いわゆる「炎上」状態でないことは明白ですから、余計な心配をしておられるのではないですか? 第一、「そっとしておけ」とおっしゃりたいならご自分のエントリでユリアさんのエントリに言及されない方がよいでしょう。野良猫さんのエントリでユリアさんのエントリの存在を知り、ユリアさんに批判的なコメントを投稿する人間が現われないとも限らんでしょう。

ちなみに、中国政府は公称で「35万人」としているし、日本国内の一部教科書では「40万人」と表記している所もあるようです。どうも、人口の数を曖昧にすることで、人数を水増ししているようにしか見えないのですが……(四捨五入もありそうですね)。

「所もあるようです」とはまたずいぶんと曖昧ですね。ソースを示していただければ検証のしようもあるのですが。「人口の数を曖昧にすること」とはいったいなにを意味しているのかよくわからんのですが…。もともと事件当時の人口は(大規模な流入・流出があったので)曖昧なんです。そのため、同じ地域を問題にしていても人口推定値に大きな違いがあるというだけのはなしだと思いますが。
ちなみに、中国側の主張する数字が増えること自体を指して非難するひとを時おり見かけますが、「増える」のがおかしいなら「減る」のもおかしいはずですよね? 研究が進めば数字が減ったり増えたりすること自体はあたりまえで、問題とされるべきはその数字の根拠です。

(…)国際外交の世界では、相手になるべく無防備なままでいてもらい要求を通しやすくするのは当然。将棋の対戦相手に、わざわざ良い手を教えてあげるお人好しがいないのと同様です。真剣勝負ならなおさらのこと。
 日本政府(日本人)は、もっと彼らの現実主義でタフなところを見習うべきなのかもしれません。

これについてはまったく異論ありません。ところが困ったことに、「マボロシ」説などを主張して日本を「無防備」にしてしまう人々がいるんですよねぇ…。私は日本人がもっと「現実主義」的であってほしいからこそ、「マボロシ」派を批判していきたいとおもっております。

 仮に50万人殺していたと判明した場合でも、現在の国益を失わないために外交圧力を跳ね除け、自国の要求を中国政府に飲ませることが「政治」であり、日本政府が課せられた使命です。

ここで「国益」とか「自国の要求」とされているのが具体的にはなんなのか、さっぱり分からないので評価しにくい主張ですが、南京事件の真相とは別に日本政府が「国益」をまもるべきだということにはもちろん異論はありません。私が主張しているのは

・いま現在、中国側の主張する犠牲者数を問題化することは日本の国益にとって重大な事柄ではない(国際社会では中国側の主張がそのまま信じられているわけではない一方、相当規模の虐殺があったこと自体は国際社会のコンセンサスとなっているから)
・いわゆる「マボロシ」派は中国に「南京」を外交カードとして利用する機会を与えており、それゆえ日本の「国益」に反する、敢えて言うなら「反日」的主張である

ってことです。

 ……ロシアが朝鮮半島を欲していた事はわかりますね? 朝鮮半島にロシア海軍の基地が置かれたら、日本はロシアの勢力下に置かれてしまう。それを避けるための「朝鮮の独立と近代化・親日政権の維持」が日清・日露戦争の意義でした。日韓併合も結果的なものであって、日本政府が当初から計画していたものでもない(同盟国にして、現地政府に防衛させた方が軍事費も安上がり)。

まずもってこの手の主張はロシアの軍事力を過大評価していると私は考えますが、さらにロシアが朝鮮半島に影響力をもつことを快く思わないのは日本だけではなく、他の欧米列強、清、そしてなにより当の朝鮮自身にしても同じであったことが無視されていますね。つまりロシアの南下に対抗するための他のさまざまな選択肢が無視されている、ということです。さらに「同盟国にして、現地政府に防衛させた方が軍事費も安上がり」とおっしゃるからには朝鮮併合が結果的に失敗であったことをお認めになるのでしょうか? だとすればそれ以降の戦争について「仕方がなかった」「運命的」だったとする主張はもはや成り立たないと思いますが…。

>動員する/されるの違いはお分かりですよね、もちろん?

 いいえ、よく意味が解りません。徴兵された一般兵は被害者であり、動員を決定した政府関係者は加害者という考え方があるんですか? それを言い出すと、徴兵制だった当時の国民国家のほとんどはそういう分類になりますけれど。

「という考え方があるんですか?」っていまさらなにを。むしろきわめてポピュラーな考え方でしょう。また、中国政府の公式な立場でもあります(だからこそ中国は国交回復にあたって賠償請求を放棄したわけです)。私はもちろん単純な「軍部悪玉論」には与しませんが、直接政策決定や戦略立案に関わった立場の人間とそうでない人間とでは責任の軽重に違いがあるのは当然ですし、日本政府が日本国民に対して責任を負うのは当然のことです。
「当時の国民国家のほとんどはそういう分類になる」というのはまるでピンぼけですね。私や青狐さんが問題にしたのは大日本帝国の戦争が「仕方なかった」ものなのかどうか、です。例えば当時ロシア(ないしソ連)が東京占領を目指して軍事的に侵攻してきたとして、そのために戦争が起きたのであれば誰も「徴兵された一般兵は被害者」だとは言わないでしょう(正確にはロシアによる加害の被害者ではあるが日本政府による加害の被害者ではない、となる)。むろん、戦争を回避するために日本政府が十分な外交努力を行なっていれば、のはなしですが。そのようにして起きた戦争ならなるほど「仕方なかった」と称する可能性も出てくるわけですが、「「痛切さ」を欠く「仕方なかった」言説」というエントリで書いたように「大日本帝国は沖縄戦などの例外を除いてほとんど国外で戦っていたのだということを思い出す必要があろう」と言っているのですよ。

 在中邦人は日本企業の関係者・炭坑などの単純労働者(現地企業と数年単位での契約)・租界のビジネスチャンスに期待した移住組などが挙げられます。現在の中国で働いている日本人とほとんど違いはありません。他の外国人居留民も同様です。

「現在の中国ではたらいている日本人とほとんど違いはありません」ですか、やれやれ。歴史的経緯をふまえろと主張しておられたのは野良猫さんではなかったですか?

 意味がよくわかりません。僕は南京事件というもの自体、終戦時の戦犯裁判に必要だったためにデッチあげられたものだと考えています。……が、支那事変と南京事件の真偽に関係はありませんね。

だから、「日本は中国を占領・支配する計画などもっていなかった」などと言うことを持ち出してきたのはなぜなのですか? とうかがっているのです。関係ないことを持ち出したのは他ならぬ野良猫さんですから。

 支那事変は中国全土の占領を狙った「侵略戦争」ではなかったとご理解いただけたなら幸いです。そういう言葉は、ソ連のバルト三国併合やフィンランドを侵略した「冬戦争」などに当てはめるべきですからね。
 ちなみに、そういうプランが無いと「日本軍=侵略者」という説明がつけにくいので、中国の歴史教科書では「田中上奏文」が載せられているそうです。……この内容の真偽についてはご存じですよね?

「中国全土の占領」を狙ったものでなければ「侵略戦争」ではない、という定義はとうてい受け入れられるものではありません。また、そのような定義でもって日中戦争を侵略戦争だとしている論者は知りません。それから私が知る限り全ての中国の歴史教科書が「田中上奏文」に言及している事実はないのですが(このあたりは Jonah さんがお詳しそうですが)、だとすれば別段「中国全土の占領」などというプランなど存在しなくても「日本軍=侵略者」という説明はつくということになりますよね?

 本多勝一も述べていた事ですが、数の多寡と正確さが正比例するものとは限らない。ですが、数が多くないということは、多くの支持を得られない理由があるとも言えます。前の世代から受け継がれてきた自然な「歴史観(歴史感覚)」と、政府や一部知識人の都合によって作り出された「こうあるべき」という人工的な「歴史観」のどちらに信頼性が置けるでしょうか。

 どちらも「人の手」が入っているという意味では「人工的」ですけれどね。

なんというか、ここを読むとつくづく野良猫さんと議論するのが虚しくなりますね。「多くの支持を得られない」という点では南京事件に関する「マボロシ」派についても同様なわけですが、その「理由」はなんだと思われますか? 根拠を欠くから「多くの支持を得られない」事柄もあれば、心理的に受け入れ難いので「多くの支持を得られない」事柄もあるわけで、「多くの支持を得られない理由」は様々なんですよ。その「理由」の内実を問題とせずに支持の多寡を云々することは意味がないと思いますが、いかが?
さて、「前の世代から受け継がれてきた」歴史観も「人工的」であることはお認めいただいたようですが、まずもって「前の世代から受け継がれてきた自然な歴史観/政府や一部知識人の都合によってつくり出された「こうあるべき」という歴史観」という二項対立が欺瞞的です。「多くの歴史家たちが討議する中で練り上げられてゆく歴史観」なるものを野良猫さんは認めないわけですか? さらに、「前の世代から受け継がれてきた」歴史観の中にも数多くの「こうあるべき」「こうあってほしい」が混じり込んでいることをご存じないのでしょうか? だとすればよほど文献の選び方に「選り好み」があると思われますね。自然発生的な歴史観が一般的に正しいというのなら、「チンギス・ハーン=義経」説だって真実だということになりかねませんね。野良猫さんには、「選り好み」せずに歴史研究者の書いた文献を読むことを改めてお薦めしておきます。

さて、次に昨晩頂戴したコメントについて。

 いえ、あなたが言っているかが問題なのではなく「歴史修正主義」という言葉を当てはめるなら彼らの方では ? と述べたに過ぎません。自己弁護や何らかの利益の為に、物理的事実を覆い隠す行為をそう呼ぶのですよね?

どうも野良猫さんは(先ほどの「侵略戦争」と同様)“オレ様定義”に基づいて議論をされる癖があるようで、いちいち訂正しなくてはならないので面倒ですね。だいたい、「歴史修正主義」については jimusiosaka さんから答えをもらっているはずでしょう。

まず、歴史学において「歴史修正主義」という場合、通説に対してこれを修正する研究、という字義通りの意味合いがあり、これは様々な研究分野において見られるものです。しかし、特にファシズム時代に関する分野において、学問的な研究方法を無視したり軽んじたりするやり方で「ホロコーストはなかった」などの主張をする人々がおり、このような人々を特に「歴史修正主義者」と呼ぶこともあります。私が今回のエントリで述べた「歴史修正主義者」は、後者の意味で用いています。

どうです、思い出しましたか? 中国政府や韓国政府の主張に、歴史学的に妥当でないものが含まれているにしても、南京事件に関して「歴史修正主義者」と呼ばれるべき者がいるとすればそれは「マボロシ」派である、というのが私の見解ですよ。

 基本的に「自由主義史観」や「つくる会」は史料批判から行っているので、単に「修正主義だからだめ」と否定するだけでは、中間層や彼らの主張に耳を傾ける人達に再考させるのは難しいと考えます。

jimusiosaka さんが「後者の意味」としておられる意味での歴史修正主義(私もまたその意味で用いています)はそもそも方法論的に妥当でない議論を指しますので、「修正主義だから駄目」は「方法論的に間違ってるから駄目」ということを意味します。そしてどう間違っているかについてはあちこちでいやというほど指摘されていますので、「選り好み」せずに文献を読んでみてください。

 首都攻防戦のさなか、民間人に犠牲が出るのは避けられないことです。ただし、それは日本側にのみ責任があるとは言えません。日本側は降伏勧告を行っているし、国民党側も政府レベルでの停戦交渉・あるいは無防備都市宣言・一時的な停戦による武装したままの退去──という選択肢が残されていた。それらを選ばずに自分たちだけ逃げた、蒋介石や唐生智の責任も同列に並べないと「分析」とは言えません。

南京事件の犠牲者数を巡る議論において、なぜ「蒋介石や唐生智の責任も同列に並べないと」いけないのか、さっぱり分かりません。蒋介石らの「責任」が問題になるのは南京事件の「責任」(犠牲者数、ではなく)が問題になる局面においてでしょう。

「歴史学」という学問には疎い身ですが、現在の価値観で「帝国主義」が普遍的だった時代を判断するのはどんなものでしょうか。

「普遍的」という語をどのように理解しておいでですか? おそらく野良猫さんはその当時の価値観に照らしても「侵略戦争」は不当なものだとされていたことをご存知だからこそ、日中戦争を「自衛戦争」とする見地にしがみついておられるのでしょうが、そのために「歴史的経緯」を恣意的に構成していることはすでに指摘した通りです。

とりあえず、新刊でもいいから紹介した本を読んでみてください。これ以降はトラックバックで。

「選り好み」疑惑がきわめて濃厚な方に読むべき本を薦められても困ってしまいますね。すでに述べたように、「立ち読み」レベルでよいのなら小林よしのりや東中野修道がどのような主張を行なっているかは承知しているのですが。
それから、「これ以降はトラックバックで」とかおっしゃいますが、私のエントリにトラックバックを送ってはおられませんよね? ひょっとしてこれも“オレ様定義”? 私の方はきちんとトラックバックさせていただきますんで。

Posted: 水 - 11月 23, 2005 at 01:08 午後          

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