『神の法 VS.
人の法』(追記あり)
内藤正典・阪口正二郎(編著)、『神の法
VS.
人の法 スカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』、日本評論社
9月22日追記
この半年ばかり読書のジャンルがすっかり偏ってしまってるわけだが、昨日の書評欄で見つけて面白そうだったのでさっそく買ってきた。書評でも指摘されていましたが、執筆陣が社会学者と法学者(憲法学者)から成っており、多角的な視点から問題を分析している点が勉強になる。議論の主要な参照対象となっているのはフランスにおける「スカーフ論争」「宗教シンボル着用禁止法」であるが、ライシテを共和国のアイデンティティの核に位置づけているフランスとは対照的に政教分離に関して緩やかな規定しかもっていないドイツ、ベルギーにおける「スカーフ問題」、また国民の大部分がムスリムでありながらフランスにならったライシテ(トルコ語ではライクリッキ)を国是とするトルコの「スカーフ問題」にもそれぞれ章が割かれており(ドイツについては2つの章)、問題の複雑さを理解するのに役立つ。特にドイツの事例は興味深い。周知のようにドイツのムスリムの多くはトルコからの移民であり、厳格なライシテを制度化した国からやってきた移民たちが、公的な領域に宗教が侵入することに比較的寛容なドイツにおいて提起した問題だからである。一つには「スカーフ論争」が単なる政経分離の問題、近代国家とイスラームの対立の問題ではなくキリスト教文化とイスラームの対立という側面をもっているということを明らかにしているし、他方では「ヨーロッパのムスリム女性がなぜスカーフをかぶるのか」という問題*をも浮き彫りにするからである。*
基本的には、マイノリティとしてのムスリムがヨーロッパ社会に十分に「包摂」されていないがゆえに起きることだ、というのが著者たちの共通認識のようだ。フランスの宗教シンボル禁止法をめぐって十字架のアクセサリーなどが問題化したこと、すなわちある社会で宗教的・道徳的に中立的とされることが実はマジョリティの文化に他ならないことがある、といったことについては新聞等でも報道されたと記憶している。しかしそれがどれほどの射程をもつ問題であるかは、少なくともマスメディアの報道ではほとんど解説されていなかったのではないか。クルアーンには実は明示的にスカーフの着用を義務づけた章句はない。あるのは身体の性的な部位を隠せという命令である。したがって、本書によれば、スカーフを着用するかどうかは第一義的には個々の女性が髪の毛を性的な部位として意識するかどうかに関わることであって、スカーフを脱ぐよう強制することは場合によっては下着を脱ぐよう強いることと同じ意味をもつ、という(むろん、「個々の女性が…」という部分でムスリム女性の自由意思が問題にされるわけだが、これについては後述)。他方、トルコでは男性のあごひげも政治的イスラーム主義への支持のシンボルとされているため、スカーフのみならずあごひげも公的な場では禁じられているという。しかしあごひげに関してはヨーロッパでは宗教的に中立な装いとして理解されているために問題化されることがない。結果として、ヨーロッパでのスカーフ論争はムスリムのうち女性だけをターゲットとし、女性だけを公的な領域から追放する効果を発揮しかねない。しかも、スカーフ論争の背後にイスラーム過激派への(虚実入り混じった)警戒感があるにもかかわらず、イスラーム主義へのコミットメントを意味するあごひげはノーマーク、ということにもなっているわけである。フランスやドイツで、マイノリティの人権擁護に熱心な左派が公的領域でのスカーフ禁止を支持した大きな要因として、スカーフがイスラーム世界における「女性の抑圧」のシンボルとして理解されたことがある。性差別といえばキリスト教や仏教のような宗教の場合にも決して他人事ではないわけだが、原理的に聖/俗の区別をもたないイスラームの場合、教義がはらむ性差別が他の宗教とは異なるかたちで問題となることは確かであり、イスラーム世界が取り組むべき課題の一つであることは確かだろう。しかし本書は、「イスラーム=女性抑圧」といったステレオタイプが、実のところイラクやアフガニスタンより国会議員における女性議員の比率が低いフランス*において、女性の抑圧を「他者の問題」視する傾向を生んでいると指摘している。また、あたかもすべての女性が父や夫の強制によりスカーフを着用しているかのようにみなすパターナリズムも指摘されている。だが実際にスカーフを着用するムスリム女性の動機はそんな単純なものではない、とされる。 なぜかというと、イスラームには教会組織がまったくないので、したがって自分がムスリムをどこまで実践するのかということは、実は誰も問えないのです。イスラーム法どおりの生活をしてもしなくても、他人の信仰には口を出さない。これがイスラームの本質なのです。ですから、例えば娘に向かって「スカーフを被れ」と強要する父親はいますが、たいていの場合、イスラームの知識がない父親は、スカーフだけでなく、外出にも規制をかけます。ところが、フランスに実際によくある話ですが、父親からの自由を得るために、イスラーム法学の理解を深めて、スカーフを被ってしまう。それによって、それ以上の自由の束縛を拒み、父親の無知を指摘する女性が出てきています。そうすると、立場は逆転してしまう。スカーフを被ることによって、自由を手にすることもあるのです。(278-289ページ)ここを読んで、強固なミソジニーをはらんだ西洋キリスト教と「女性解放」運動との関係を論じたカレン・アームストロングの議論(『キリスト教とセックス戦争』、柏書房、における)を連想したが、こうした側面はなかなかヨーロッパ各国における議論では注意を払われていない、というのが実情のようだ。*
そのためパリテ選挙法ができた。イラクやアフガニスタンとの比較がいつのデータによるものなのかは明記されていない。本書でもトルコにおける世俗主義と政治的イスラーム主義との対立については紹介されているが、このようなニュースが。大学での女性スカーフ解禁すべき、トルコ首相が意向(読売新聞) 【カイロ=福島利之】トルコのエルドアン首相は19日付の英フィナンシャル・タイムズ紙のインタビューで、イスラム教の象徴とされる女性のスカーフ着用について、大学での禁止措置を「撤廃すべきだ」との考えを示した。(…) 政教分離と世俗主義を掲げるトルコでは、女性が大学や官公庁など公共の場でスカーフをかぶることを禁じている。首相の発言は、自身が率いる穏健イスラム政党「公正発展党(AKP)」が7月の総選挙で圧勝したことを受け、従来の考えを前面に押し出したものとみられる。(…)トルコのEU加盟問題に関して、ヨーロッパ側から反トルコ的な声が出ていることに対し、本書の編著者の一人内藤正典氏は「トルコを排除してしまうということが、イスラーム世界での世俗主義の実験をヨーロッパがつぶすことを意味」する、と指摘している(296ページ)。
Posted: 火 - 9 月 18, 2007 at 07:07 午前
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