美しい国の美しくない外交


河辺一郎、『日本の外交は国民に何を隠しているのか』、集英社新書

扱われているトピックは国連分担金(第1章、第6章)、イラク戦争(第2章、第4章)、常任理事国入り問題(第3章)、拉致問題(第5章)。日本は分担金を恒常的に滞納しているうえに、(非常任)理事国には世界で最多の9回当選している。また日本の分担率増加の3分の2はアメリカの分担率を下げたことによるものである。にもかかわらず日本では「高額の分担金を払っている割に発言権がない」というイメージが定着してしまっている、という。そもそも「高額」といっても(2005年の場合)380億円ほどに過ぎないのだが。
このように、著者によれば、日本では政府の国連外交の実態がよく知られないまま外交が論じられているという。「隠している」といっても、本書ではいわゆる機密情報のリークなどに依存する記述は全くなく、公開された(多くは自宅に居ながらにして入手可能な)情報がベースである。したがってマスメディアの責任は非常に大きい。
外交政策において国家が自国の利益を目指して行動することはもちろん非難さるべきことではない(政府が主張する「国益」が、本当に日本にとっての利益であるかどうかについては絶えずチェックされねばならないが)。しかしながら、「理屈はどうあれオレが得するようにしろ」と主張しあうのではそれはもはや外交ではなく、ならず者の集会であるから、「いかにして普遍的な理念のうえに自国の利益主張を根拠づけるか」こそが外交上手・下手を分けることになろう。本書の議論を信じるなら、この観点からみる日本の行動はちっとも美しくない。現在日本は、拉致問題が普遍的な人権問題であると主張し、その普遍性ゆえに世界各国に協力を呼びかけているわけだが、かつて南米で国家による「拉致」問題が深刻であったころ、国際的な介入には極めて消極的であったことがどれほど記憶されているだろうか? さらに著者によれば、日本の国連外交は「対米追随」では説明出来ないほど「突出」した側面をもつという。国連重視を謳ったカーター政権時代に、アメリカですら賛成した「チリの人権を問題にする国連決議」に棄権したのが日本であった。アメリカではなく、アメリカの保守派とがっちりタッグを組んでいるのが日本の外交なのである。

さて、「おわりに」で著者は「特に2001年以降の日本外交は、判断ミスと失敗が続いている」と評している。それも、立場によって成功・失敗の評価が分かれるような失敗ではなく、議論の余地のない、どの立場から見ても失態と評すべき事態が続いている、というのである。

 第5に、そして最も深刻なことは、これほど議論の余地のないミスでありながら、ほとんど問題になっていないことである。だからこそミスが繰り返される。日本政府は、自国が何をしているのか、そしてそれが各国からどのように評価されているのかも判断できないのかもしれない。そして国民も問題だと認識していない。誰からみても誤りであり、疑問の余地がなく、それ自体が失敗したことが判明し、他の分野に大きな悪影響を及ぼした問題でありながら、これではそもそも国民に政策を評価する能力があるのか否かが問題になる。
(…)
 このように見ると、イラク戦争に際して繰り返された「やむを得ない」という言葉が改めて重い意味を持ってくる。これに、「他の国も同じことをしていた」を加えると、お定まりの議論が完成する。(…)

「やむを得ない」という理屈で納得した戦争だから、イラクに大量破壊兵器もアルカイーダとのつながりもなかったことが判明しようと、政府の責任を追及する声は多数派にはならない、ということである。やはり当ブログでは今後もこの「やむを得ない」という発想を問題にし続けることにしたい。(参考:「痛切さ」を欠く「仕方なかった」言説『アウシュヴィッツの<回教徒>』

Posted: 木 - 1 月 11, 2007 at 12:28 午前          

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