これもひどい



「心の仕組みの修復は国の仕事」なんて見出しにまでつっこみ始めたらきりがないのでポイントを絞って。

桐山:柳田先生をお待ちする間にテレビをみていましたらね、11歳の娘さんを殺害した少年の裁判のことが報じられていました。そこで弁護側は少年時代に不幸な境遇にあって正常な精神が発達されなかったとして無罪を主張した、というのです。こんなケースが最近多くなりましたね。みんな不幸な境遇を乗り越えて生き抜いているわけです。不幸だからといってだれも殺人なんかしませんよ。なのに人を殺したのは正常な精神の発達が阻害されたからだと抗弁、無罪だと。べらぼうな話ですよ。腹が立ってしようがない。

柳田:山口・光市の母子殺害事件の場合でもそうですね。私は、現代社会の中で専門家の考え方、いのちとの向き合い方が根本的におかしいと思うのです。気の毒な境遇で育って善悪の判断もできない少年少女に罪を問うのは酷だ、と主張する。生育歴が人格・性格を決める重要な要素であることは確かです。しかし、生育歴が悪かった子供は無罪という短絡的な主張が成り立つ制度は、かえって一般の子供までおかしくする。責任の取り方についてはけじめをつけたうえで、情状を考慮した更正の道を探るという二段構えをするべきです。

桐山:まさにおっしゃる通りです。責任を取らせた後を社会がどのように対処するべきかと混同しているのではないでしょうか。

柳田:有罪が確定すればそれに従う。これは当然のことです。管長猊下のご指摘のように、その後に社会がその子らをどう支えていくかは別問題なのです。いくつかの段階を経て更生していかねばならないのに、生育歴が悪いのだから無罪だといきなり主張するのは容認されるべくもない。やはり悪いことは悪い。罪は罪なのです。なにも法律の世界だけでない。学校教育、行政、医学・医療の世界でも似た構図になっている。戦後の日本はそうした社会の仕組みをつくってしまった。

桐山:非常に怖いことです。少年たちが「おれたちは人を殺しても少年法で無罪なのだ」と放言している。そんな現象が見受けられるようになった。

俺はむしろ、いい大人(まあ桐山靖雄* についてはいうまい。しかし柳田邦男までも)がこんなことを「放言」して、それが新聞社の運営するオンラインニュースサイトにのっているという「現象」の方に愕然とするよ。仮に両事件で裁判所が弁護側の主張を鵜呑みにした判決出して、その判決を批判するならまだ分かるよ。なんで刑事被告人やその弁護人がそんな大所高所から考えて弁護方針決める必要があるわけ? 弁護側には無理筋だろうがなんだろうがありとあらゆることを言わせる、そのうえで判決があるからこそその判決は正統性をもつんじゃないのか? で、被告側の弁護活動にこうやって道徳的な枷を嵌めていくことが冤罪の誘因になる、ってことはちっとも考えないんだ…、と腹を立てていたらモトケンさんがやはり同じことを指摘していた

 もう一点思うところは、一般の方は裁判における当然の存在としての裁判所(裁判官)の存在を忘れているのではないか、という危惧です。
 弁護人が、「被告人には殺意がなかった。」と言えば、それだけで殺意がなくなるかのようなコメントが多数見受けられました。
 弁護人の意見がそのまま通るという認識が前提になっているかのようなコメントです。
 そして、仮に被告人が殺人ではなく傷害致死になって死刑を免れたら、それは弁護団の(不当な)弁護活動のせいだ、というような意見も見られました。
 しかし、判決をするのは弁護団ではなくて裁判所なのです。
 裁判所が、弁護団の意見を正当なものまたは説得力のあるものと認めた場合に裁判所は弁護団の主張にそう認定を裁判所の責任においてするわけです。
 逆に、裁判所が弁護団の主張には説得力がないと考えれば、弁護団の主張は採用されないのです。
 
 法律家が主張の説得力を問題にするのはそういう仕組みを前提にしているからです。
 このような基本的なところが理解されていないということについては、日本の教育の欠陥ではないかと思っています。
 せめて高校でこの程度のことは教えるべきだと思います。

しかしねぇ、名の通った評論家までがこんな認識なんだから、「教育」の欠陥を超えた問題じゃないかと思いますよ。そりゃ、高校の公民では(刑事)裁判のこのような構造について明示的に学ぶことはないのかもしれない。しかしふつうに裁判ものの小説読んだり、ドラマや映画を観る機会があればぼんやりとではあっても飲み込めそうな程度のはなしじゃないですか、これ。
裁判だけでなく、研究者レベルでも多様な意見があってなにが悪いわけ? 「気の毒な境遇で育って善悪の判断もできない少年少女に罪を問うのは酷だ、と主張する」研究者がいて、じゃあ世の中その通りに動いてるのかよ? むしろ逆だろうが。

これだけにしようと思ってたんだけど、ついでなので。

柳田:先日亡くなられた心理学者の河合隼雄先生を人生の師と敬っておるのですが、河合先生は「西洋的科学主義、合理主義には重大な盲点がある」とおっしゃっています。それは科学的に細かく分析する方法ではかえって見えなくなる「心」とか「たましい」を見失ったことです。「たましい」は戦時下では大和魂などと悪用され、戦後はなんでも証明を求める科学主義によって切り捨てられてしまった。しかし、自分と他者との関係性を切断したとたんに、人は根無し草となり、生きる意味を見失った。「たましい」とは人間の関係性の総体でもあり、つなぐものでもあると河合先生はおっしゃっていました。

こういうこと言うんだったらさ、こういうこと言う人間こそが率先して「「たましい」は戦時下では大和魂などと悪用され」たという事実を徹底的に追及し、二度とそんなことが起こらないための戒めにすべきだよな? しかしこの先はなしがどう進むかというと、

桐山:そしてその繁栄が戦争で犠牲になった多くの若者たちのおかげであることを忘れてはなりません。「国のため」と満足して死んだ多くの兵士は成仏しました。しかし不幸にも怨念(おんねん)を残したまま死んだ人の霊魂は、成仏できません。(…)

なんてはなしになるわけですよ。「「たましい」は戦時下では大和魂などと悪用され」たことへの批判精神などかけらもない。

* 記事のプロフィールでは「世界各国でも、世界平和記念の護摩を焚く」とされてるのに、紹介されている著書は『さあやるぞ、かならず勝つ』なんだよな。「勝つ」ことの道徳的な価値を見直すことなしに「世界平和記念」なんて可能なのか?

Posted: 火 - 9 月 25, 2007 at 12:33 午後          

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