弁護団は事件(被告)を利用しているのか?



光市母子殺害事件弁護団への非難について、再び。
「死刑廃止の運動自体は結構なんですけど」と前置きをしながらなお、「この事件を死刑廃止のために利用してるんじゃないか」と語る人々を連日のように見かける。テレビなんかはそもそも「論拠」を提示することを求められるメディアではないから言いっぱなしなのは当然としても、このエントリのコメント欄で「利用している」と主張した人々が結局のところ「弁護団は死刑廃止の運動家だから」という状況証拠しか挙げられなかったことは記憶に新しい。
そもそも今回の事件、「利用」できるような条件がそろっているのだろうか? ある事件を死刑廃止運動に「利用」するためには、多くの市民が「死刑制度があるがための不条理」と感じるような事態を招来する必要がある。もっとも理想的なのは
・(死刑廃止論者以外にとっては)死刑が当然と思われるような事件で、現に死刑が執行された後、「真犯人」を登場させる
であり、ついで
・(死刑廃止論者以外にとっては)死刑が当然と思われるような事件で、裁判の大詰めになって(あるいは判決から死刑執行の間に)「真犯人」の存在を異論の余地なく立証する
というものであろう。しかし今回、弁護団は「全くの冤罪」という立場はとっていないので、こういう展開を狙っているとは考えにくい(可能性がゼロとは言えないが)。それ以外には
・検察官、裁判官にとっては死刑を回避する理由とならないなんらかの事情により、一般市民が被告に大いに共感を寄せているようなケースで、死刑判決が出てしまう
というケースでも死刑制度=理不尽、とアピールできるだろうが、これは現実と合致しない。被告は一貫して憎悪の対象となって来たからである。逆にいえば、被告を憎悪の対象としたまま、しかし専門家たる裁判官には通じる立証によって死刑を回避したところで、死刑廃止論のアピールになるとは誰も考えないだろう。

とすれば、「死刑廃止論へのダメージを覚悟してでも、なおこの裁判で死刑回避の可能性を模索している」と考える方が妥当ではないのか? むろん、弁護団が事態をどのように認識しているかは、私を含む大半の人間にとって不明であるから、「なにを狙っているのか」は推測するしかないわけだが。

ところで弁護側の主張を「聞くに堪えない」などと評する人々もいる。だが裁判というのは「いいはなし」を聞かせるために行なわれているわけではない。もともとが凄惨な事件である。不愉快なはなしは聴きたくないと言うのなら、専門家を信頼して自分は耳を塞いでいればいいのである。しかし市民として刑事裁判に関心をもつと決意するのであれば、そうした不愉快さに堪える覚悟をすべきであろう。

Posted: 火 - 7 月 3, 2007 at 11:53 午前          

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