長崎市長銃撃事件について
犯人の動機・背後関係が十分明らかになっていない段階で「言論へのテロ」といった論評が行なわれることにはちょっと違和感を持つ。「言論へのテロ」ならより許しがたく「私怨による殺人」ならそれよりはマシという含意をもちかねない論評は、被害者が公人であるだけにそうした視点ももつ必要はあるにせよ、亡くなって間もない(しかも事件の全貌が明らかになってはいない)段階で口にされねばならないようなものではあるまい。この数年「テロ」という言葉がどれほど政治的に利用されてきたかを考えれば、なおさらである。
現時点でこの事件を政治的な観点から考えた場合、より見逃せないのは*
次の久間防衛相の発言であろう。
2007年4月18日14時19分
読売新聞
期限付き補充立候補、選挙直前できず…公選法の不備が浮上
(…)
こうした補充立候補制について、久間防衛相は17日夜、「3日前を過ぎたら補充が利かない。法律の欠陥が如実に出ている。(候補者を多く擁立する)共産党の候補者が当選してしまう(可能性がある)」と述べ、公選法改正が必要だとの認識を示した。
(…)
現職市長の殺害という暴力をあからさまに(それこそ、共産党系の現職市長が殺害されたのであればこんなことは言わなかっただろう、と思わせるほどに)党派的に理解したうえでなされたこの発言こそ、テロリズムと親和的な発想に基づいているのではないのか。こんな発言をする人間が日本最大の武力集団を管轄する官庁のトップであるというのはとんでもないことである。
事件の翌日、過激派アジトについての情報提供を呼びかける県警だか警視庁だかのポスターを見かけたのだが、ビラ配りや便所の落書きまで逮捕の口実に使っている警察が、取り締まりの重点の置き方に党派性を発揮していることも問題だろう。
*
ひとりの人間の命が奪われたことは特に政治的な観点から考えずとも十分重大なのであって、事件の政治的な含意が明らかになっていない現時点では、ということ。念のため。
Posted: 木 - 4 月 19, 2007 at 01:56 午後
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