仕切り直し
たった数行のエントリに膨大なコメントを戴いて冥利に尽きますが、さすがに「読みにくい」のは否めず、私から長介の兄さんとsk-44さんにお返事するというかたちをとって仕切り直します。以後、ご意見があればこちらのコメント欄に頂戴できれば幸いです(もちろん、古いエントリのコメント欄に投降されたからといって削除したりはしませんが…)。長介の兄さんへGI17さんもおっしゃるように、ある時点で教員職が「オイシイ」仕事であったかどうかを主観的な印象に基づいて議論してもしかたがなく、私自身も「バブル絶頂期に大学を卒業」した口ですが、私のみならず同級生の間でも「教師はオイシイよな」なんてはなしがでたことはありません。これも主観的な印象に過ぎませんが。本気でこの点を論じるなら実証的なデータに基づいて議論する必要があるでしょう。ところで、いずれにしても私は個人の能力に依存するような「対策」をあまり重視しませんので、どうしても「学級」という組織のあり方を変えるというプランに興味があります。日本の初等・中等教育は内藤朝雄さんの表現を借りれば「学校に共同体全体主義的な役割を担わせている」タイプに属するわけですが、教師による「気づき」を要求することはこの「共同体全体主義」的な性格を強化するだけじゃないのか、と。sk-44さんへ少なくとも日本において「右翼」ないし「右派」の定義の際に「ナショナリズム」と「ロイヤリズム」すなわち近代を前提とした「愛国」と「尊皇」に関して条件的に勘定する必要はないのですか?私は「右翼」にせよ「左翼」にせよ「家族的類似」的な概念だと思ってますので、「そういう分類も可能だし、意味を持つ文脈もあるだろう」とは思いますが、あらゆる場面でその条件を「勘定」しなければならないとも思いません。「「伝統」が近代国家において「捏造」されたものであ
ることを知ったうえで「あえて」守護しようとする者達」というのは、いくつかのアカデミックな議論の文脈においてならともかく、一般にはむしろ過剰な限定でしょう。単なる確認として伺うのですが、Apemanさんが問題としているのは「知識の多寡」以前に「発言に臨む姿
勢」である、ということですか。少なくともApemanさんはそうしたスタンスに基づいて個々の発言を判断
している、と。発言の評価の軸がただ1つでなければならない、ということはないと思うのですが? これは当ブログのコメント欄で随分前からよく話題になっていることですが(そしてその点が改めて明示されないのはホモソーシャリティーの問題ではなく、議論のエコノミーの問題です。「なんのはなしかわからん」という問い合わせがあれば誰かが補足するでしょう)、80年代にはある種の批評性を持ち得た表現手法(メタ的な視点から嗤うというもの、ととりあえず乱暴にまとめておきます)が今日では無効であるどころかろくでもない機能を果たしている、という問題ですね。今回私が再確認したのは、「うぉち」的なものだけでなくいわゆる「釣り」についてもそれがあてはまるのだ、ということです。この続きはまたコメント欄にて補足します。
Posted: 土 - 12 月 9, 2006 at 01:31 午後
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