ガラの悪い一ブロガーの感想


地を這う難破船 「公正泥棒」
(http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20061107/1162923824)
についての雑感

(…)しかしボコボコサンドバッグはSugarなファイトプレーではないなと、個人的には思ってしまう。正しい理屈で論破しても相手の心を動かせない以上勝ったことにはならない、というクリシェこそ正しい屁理屈に過ぎないので、それは用いない。しかしもうちっとこう、手を差し伸べ合う余地はないのかね。(…)

言及されている野原さんのエントリのコメント欄には私は投稿してなくて(一つ下の)エントリを書いただけだけど、別の場面で同じような状況になったのに関わったことは何度かある。今回は、私がエントリを拝見した時点ですでにコメントがいくつもついていたので自分ではコメントせず、自分のところでエントリを書いたわけだけど、「少数を多数で袋だたき」って構図にしたくないのは多分野原さんのところに投稿した人々の多くにしても同じなんじゃないだろうか、と想像する。相手方もけっこう人数がいるバトルロワイヤル状態の時は別として、「みんなの力をオラにくれ」的な意識はまったくなくて、どっちかと言えば「オレが書くからみんな書かないで」という意識の方が強い(笑) そこには(たかがブログだけど)功名心だとか「こんにゃろぶっ叩いてやる」的心理は当然はたらいているだろう。しかし、問題のコメント欄での皆さんの投稿内容を見れば、人の尻馬にのって誰かを安直にぶっ叩いてやろう…という心理による現象じゃないことは明らかだと言っていいんじゃないだろうか。罵倒語だけの一行レスなんてのは一つもなくて、みなさん手間ひまかけて書いてるわけだから。

結果的に「少数を多数で袋だたき」って構図にしちゃった時の自分の心境を振り返ってみると、むしろ互いのあいだに暗黙の共謀とか共同作戦なんかがないからレスの集中豪雨になっちゃう、という感じ。「逮捕された当人が逮捕相当の危険人物だったからじゃねーの?」みたいなコメントを発見したとき、「いずれ、自分と同じようなことを書いてくれる人がコメントするだろう」ってことがわかってれば放っておきますわな。しかし「これ、このまま放置されたらどうしよう」とか思うと書かずにおれなくなるわけです。他の投稿者が参加してきたら手を引けばよかろうと言われるかもしれないけど、自分を名指ししたレスがあったりするとなかなか無視もし難いし、それに基本的には同じ側に立って書いている投稿者間でも当然いろいろ考え方の違いがあるわけだから、他の人が触れていない重要な(と自分には思える)論点にはやっぱり触れておきたい、とか。「オレがはなしつけるから他の人は黙っといて」とはブログ主としてもコメント投稿者の立場としてもなかなか言いにくいし。

で、随分とガラの悪い「論争」にもいろいろ参加していると「正しい理屈で論破しても相手の心を動かせない以上勝ったことにはならない、というクリシェ」はそれこそ何度も聞かされた(そして相手からはたいがい「長い」と言われる)わけだけど、じゃあ「逮捕された当人が逮捕相当の危険人物だったからじゃねーの?」みたいなこと言う人にどう「手を差し伸べ」るか、ってのは難しいですよ。「手を差し伸べ合う」というのは相手にもその気がないとできないわけだし、一方的に「手を差し伸べ」るのはそれはそれで啓蒙主義じゃないの、とか。「なぜ市民運動家を無条件で嫌悪するのか、叩く以前に素でいてみたくはならないのだろうか」って、「嫌悪する理由」を十全に言語化できる人ならそもそも「逮捕された当人が逮捕相当の危険人物だったからじゃねーの?」みたいな言い方しないでしょう。

別にこっちも最初から喧嘩腰でやりあうのを望んでるわけじゃない。自分で関わった事例を例にすると、「南京事件は当時報道されなかった、だから南京事件なんてプロパガンダの産物だ」みたいなこと言う人がいるわけです。で、実際には当時報道されたという厳然たる事実があるから、コメント欄でそうした報道例を紹介しているURLを提示するわけです。そういう場合、こちらが予想するのは「それは知らなかった、調べてみます」という反応か、あるいは黙殺か、ですよ。後者ならまあいいんです。後で説明する「目的」は一応達したことになるから。しかしこれに対して重ねて「報道されなかった」と言い張るので、改めて報道した新聞名をあげてコメントしたら「シカゴ・デイリーニューズ、ニューヨーク・タイムズの記事は、スティール記者や、ダーティン記者の記事でしょう?ワシはあの記事は信用してないの!!」ときた。つまり報道があったことを承知のうえで「報道されなかった」と書いてたわけです。予備知識のない人が読んだ場合に「南京事件は実は当時報道されなかった」というのと、「私は当時の新聞報道の信憑性を疑っている」というのとではぜんぜん受ける印象が違うでしょう。この違いを利用したデマなんですよ。こういう人に「手を差し伸べ」るのは、まあ私が「人間ができてない」からというのがあるにしても、かなり難しいですよねぇ。

「そんなやつ放っておけよ」という声も聞こえてそうですが、放っておいた場合に「ブログというのは南京事件否定論を書いていい場所なんだ」「ブログというのは民族的マイノリティへのヘイトスピーチを載せてもいいところなんだ」「ブログというのは市民の基本的人権をないがしろにすること書いてもいいところなんだ」という「空気」ができちゃうことを私は危惧するわけです。南京事件否定論を開陳しているブログを読んで、それを信じる人は少数派かもしれない(であって欲しい)。しかし南京事件否定論に寛容な社会、というのがもう十分問題だと思うわけですよ。だって、諸説あるにしても万の単位で人間が殺害され、強姦された出来事ですよ。それを「当時報道されなかった」みたいなミエミエの嘘までつかって否定できてしまう「軽さ」、「もし本当に南京事件があったのだとしたら、私が開陳している否定論は犠牲者や遺族や証言者に対してなにを行なったことになるのか」と顧みることもなく否定してしまえる「空気」はおかしいでしょう。別にドイツみたいに非合法化しろとまでは主張するわけじゃないけど、「軽々しく否定論なんて書いたら反論が来るぞ」という認識くらいは持たせたいわけです。
私が相手にしている人物は「当時すでに報道されていた」という指摘に対してその後も、自分が「東京裁判で初めてでてきた話」と書いてしまっていたことを忘れて

リアルタイム (Real time) とは、英語で「即時に」とか「同時に」、「実時間」という意味の言葉。

「ただ今より、衛星生中継で、南京大虐殺の映像をお見せします。」って感じ~?みたいな~?
まぁ、これは冗談ですが(約1名、本気にしないでネ!)
ワシは、南京陥落直後、とも、陥落当時とも言って無いのですが・・?

従って、ワシの知る限り、南京陥落時、12月13日の大虐殺の報道は無かった!と信じてたのです。

などという言い抜けを続ける人物ですが、ある意味では「議論」は成立しない、という諦めは持ってます。なにかというと「長い」というクレームが来るのがいい証拠ですが、相手にそもそも「議論」するつもりがないですから。互いに「自説の正さ」を証明することが目的として共有されてるわけじゃない。「報道されなかった」のは嘘だと知りつつ「報道されなかった」と書くことで目的が達成される、と考えている人が相手であるわけです。「憶測」に過ぎないことを知りつつ「逮捕された当人が逮捕相当の危険人物だったからじゃねーの?」と書くことで自らの目的は達成される、と考える人が相手であるわけです。それでもコメントを止めないのは上に書いたような理由でして。

Posted: 水 - 11 月 8, 2006 at 06:18 午後          

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