なぜこの国でかくも声高な“吊るせ”という叫びがはびこるのか(追記、再追記、再々追記あり)
追記部分は文末
タイトルをちょこっと変更(「声高に」を「声高な」へ)
6月28日、コメントを受けて再追記、誤字その他を訂正
私は犯罪被害者遺族自身が「死刑を望む」と語ってしまうことについてはそっとしておくべきだと思っているので、近頃メディアでしきりに流されているその種の発言については(「武士道」云々といった突っ込みどころも含めて)触れないことにする。それにしても、OECD加盟国で死刑を存置しているのはアメリカと日本のみ*、アメリカは州によって事情が異なるので「全国どこでも死刑になる可能性」があるのは日本ただ一国である、という事実はもうちょっと真面目に考えられねばならないのではないか。というのも、同じくOECD加盟国間の国際比較では、日本はとりわけ殺人事件が少ない(人口10万人あたりの発生率)国だからである**。誰もが家族、友人、知人を殺人事件で失っているような社会で死刑制度の支持率が7割を超えるというのならまだわからないことはない。しかし客観的にみて最も殺人事件の被害者になる確率が低い社会(殺人事件の遺族になる確率が低い社会)の一つで、なにゆえ「死刑制度反対」の主張がこれほどアンポピュラーなのか。あたかも死刑を望むことが“自然”であるかのようなもの言いがまかり通っているわけだが、日本より殺人事件が多い社会が軒並み死刑制度を廃止していることをどう考えるのか? 何度かここで書いてきたことだが、(平均して一人が一人を殺しているのだとすれば)あなたが殺人事件の被害者になる確率はあなたが殺人事件の加害者になる確率と等しく、あなたが殺人事件の被害者遺族になる確率は、あなたが殺人事件の加害者家族になる確率と等しいのである。加害者(の家族)になる可能性を無視して被害者(の遺族)になる可能性だけを考えるのは、まったく客観的根拠の無い妄想にすぎない。
*
1996年に韓国がOECDに加盟したため、厳密には現在日本、アメリカ、韓国が死刑存置国。ただ、金大中政権以降韓国は死刑を実施しておらず、また現在死刑廃止が実現しそうな情勢であるため、実質的にはこう言ってよい。「うふふ」さんのコメントに触発されて追記。
**
『週刊朝日』などの主張によると、日本は検死がいい加減であるために毒殺が見逃されるケースが少なくないとのことだが、そうした暗数は日本に固有のこととも言い切れず、少なくとも「実はOECD加盟国中で日本が最も殺人事件の多い国であった」といったことには到底なりえないことはことさら論証する必要もなかろう。
追記:コメント欄より。
なんていうか、再犯の可能性がものすごく高い人間を野放しにするのは危険では?
死刑は殺すことに重点があるのではなくて、
この世から危険を完全に取り除く意味があると思うのですが
死刑にならずに野放しにされた殺人鬼があなたを殺しにきたらどうしますか?
Anonymous
| | 06.27.06 - 6:28
am
いやだから、こっちはあなたみたいなひとがいることを見越して書いてるんだから、こっちが書いたことをふまえて私の問いに応えてもらわないと。
日本では他のほとんどのOECD加盟国より殺人の被害者となる確率が低い。そもそも殺人事件の大半は被害者と面識のある人間によるものであり、家族によるものが約半数を占める*。つまり「死刑にならずに野放しにされた殺人鬼があなたを殺しに」くる確率よりも家族・友人・知人に殺される確率の方が高く、さらに交通事故で死ぬ確率の方が高く、さらにあなたが自分で自分を殺す(自殺)確率ははるかに高い(文字通り桁違いに高い)。
*
http://www.npa.go.jp/toukei/keiji25/H16_05_2.pdf
など参照。
再追記
昨日は早めに寝てしまったのですが、多くのコメントを頂戴しておりますのでこの再追記でレスに代えさせていただきます。
「死刑があるから殺人の発生率が低いのではないか?」という反論ははじめから予想しておりましたが、すでにコメント欄にも書いたように死刑の一般予防効果については「あまりない」とする研究が多数派です。直観的に言っても、「かっとなって」「自暴自棄になって」「追い込まれて」犯すような殺人については、刑罰を考慮に入れて思いとどまるといったことは期待しにくく、他方冷静に、計画的に行なわれる殺人の場合、無期懲役でも十分リスクとしては大きい(例外はヤクザのように、ムショ暮らしをプラスのリソースにすることができるようなケース)ことになります。後者の典型は保険金殺人でしょうが、「犯罪が露見しない、捕まらない」と思うからこそ犯行が行なわれるのであって、1億円の保険金を受け取るために15年の懲役を覚悟する、といった犯人がいるとは思いにくい。
期間を戦後に限っても日本はずっと死刑を行なってきたわけですが、殺人事件はピーク時に比べて激減している。つまり殺人事件の多寡を左右するもっと重要な要因がある、ということです。「吊るせ、という声が大きいから殺人が少ないんだ」というのでは、まるで社会と犯罪者が野蛮さを競っているかのようです。そんな野蛮さによって維持される“治安”にどのような意義があるのか、考えてみたことはあるのでしょうか。
第二に、そしてこちらの方が重要なのですが、仮に「死刑を廃止すれば殺人が増える」のだとしても、現に多くの国(しかも日本より殺人事件発生率の高い国)が死刑を廃止し、その状態に耐えている、という事実があります。私がこのエントリで主として問題にしているのは、日本社会のこの「堪え性のなさ」です。「無期懲役でも仮釈放があるから…」といった反論は、現在より殺人事件の発生率が高かった過去の日本でも事情は同じだった、という事実により反駁されます。終身刑が存在しないのはこの60年間同じで、客観的にみれば殺人事件は減っているにもかかわらず、「吊るせ」という欲望がよりあからさまにさらけ出されるようになったのはなぜか、というのが問題なのです。
その他、「お茶好き」さんや「うふふ」さんのご指摘とも関連しますが、日本政府は人権擁護法や共謀罪については「国際社会の要請」を根拠に導入しようとする一方、代用監獄や死刑については国際社会の要請を無視して存置を決めています。こうしたダブルスタンダードがまかり通ってしまうところも問題でしょう。
いま「死刑」からみの話題というと安田弁護士バッシングおよび麻原弁護団バッシングがすぐ頭に浮かびます。共通するのは「訴訟の迅速化」を盾にとった批判だという点です。しかし横浜事件や袴田巌元被告の再審請求問題をみても明らかなように、司法(国)はその気になれば平気で何十年も問題をほったらかしておくのです。安田弁護士はせいぜい数ヶ月の準備期間を要求したに過ぎず、麻原弁護団も「訴訟能力がないから公訴棄却にせよ」と要求しているのではなく「治療すれば訴訟能力は回復するから、まず治療を」と主張しているにすぎない。横浜事件に関して60年経っても自らの過ちを明確に認めない司法を許容しておいて、なぜ数ヶ月の猶予を弁護士に認めないのか。
再々追記
書き忘れ。「オレなら人を殺すときは死刑を覚悟してやる」というのもネット上でちょくちょく見かけるタイプの死刑擁護論。しかしこれは「仮定のはなしでならなんとでも言える」という点で「私の家族が殺されても死刑は求めない」という死刑批判論とどっこいどっこいであるし、死刑に一般予防効果がないことを皮肉にも主張してしまっているし、なにより殺人事件を抽象的に考え過ぎだと思う。死刑の可能性をしっかりと意識し、かつそれでも殺す方を選ぶ…というほど冷静に考えることができる状態にあるのなら、そもそも人を殺したりはしないだろう(もちろん、例外はあるが)。
改めて繰り返しておくが、ここで問題にしているのは「客観的にはまれに見るほど“殺されることが少ない”社会で、なにゆえこれほどに”吊るせ”という欲望の表出がみられるのか」ということ。ネオリベ化との関連…という目星をつけたうえでの問いだが。
Posted: 月 - 6 月 26, 2006 at 10:47 午後
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