80年代に達成されなかったこと


どういうわけかアップロードに失敗するので、とりあえず前半だけを掲載。

先日のこのエントリとかこのエントリに頂戴したコメントを拝見しつつ、あらためて「80年代」というものについてつらつら考える。
80年代の日本は自信にあふれていて(その自信の内実はひとまず問わない)、それゆえにこそ「謙虚になれ」という主張にも十分な敬意が払われたように、いまとなってみれば思える。戦争責任問題についてもそうだし(個人的には小泉よりもはるかに靖国参拝への強いモチベーションを持つと思われ、またイデオロギー的にも小泉より明らかにタカ派の中曽根康弘が、内外からの批判をうけて、それ以降の靖国参拝を断念したこと、など)、ここで問題にしたい「日本人の働き方」についてもそうである。
一方には日本型経営への手放しの賞賛や、「24時間戦えますか?」というCMに象徴されるようなイケイケドンドンの雰囲気もあったけれども、長時間労働、社員を人格ごとからめとろうとする企業文化への批判が、左翼だけでなく広く共感を獲得したように記憶している。なにより、対米貿易黒字の拡大を前に、「労働時間短縮、内需拡大」はいわば国策になったわけで、「経済成長という目標を達成したのだから、これまでのような働き方を見直そう」という目標が、少なくともお題目としては国民的なコンセンサスになっていた(すくなくともなりつつあった)、と思う。だから、バブル期に「フリーター」が登場したときにも、もちろん「わがままだ」という声はあったけれども、「企業に縛られない自由な生き方の模索」といった肯定的な評価は保守的な人びとの間にも少なからず見受けられた(今日のような事態まで見越しての評価だったのかどうかはわからないが)。
しかし、結局のところ日本人の働き方に大幅な変化はなかった。それがなぜなのか、例えば労働生産性が(自己イメージに反して)低いから長時間労働(サービス残業)なしでは利益をあげることができなかったからなのか、せっかくの儲け時に休んでなんていられるかという意識が働いたのか、それとも家庭より職場のホモソーシャルな人間関係に男たちが居心地のよさを感じたからなのか…、はわからない。しかしこれ以上ない好機であったバブル時代に働き方を(というより社会のデザイン全体を、かも)変えることができないまま、この10年間労働条件はさらに悪化しているわけである。
今日の朝刊は特殊合計出生率が最低を更新したことを伝えている。少子化の要因はいくつもあるだろうが、80年代になにも変えることができぬままそのツケを若い世代に払わせていることへの“復讐”という側面があることは否定できまい。子どもは「社会が家族についてなにを語るか」ではなく、「実際に家族がどう機能しているか(あるいは機能していないか)」からこそ、自らの家族観を形成する。いくら教科書に結構なことが書いてあっても、「父親不在の食卓」「結婚なんてするんじゃなかったとこぼす母親」をみて育ったのがいまの“子づくり適齢期”世代であるわけだ。

Posted: 金 - 6 月 2, 2006 at 10:10 午後          

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