全てのものは同じであり、全てのものは異なっている(追記あり)
『ホテル・ルワンダ』パンフレット騒動について、もうひとこと
最初は「世の中、こんな阿呆がおるのか」とあきれると同時に、町山氏の尻馬に乗って炎上させている馬鹿どもへの怒りの方がむしろ先に立って静観していたのだが、その後いや〜な方向に事態が進行してしまっているようである…。このブログでも何度か書いたことだと思うのだが、全てのものは「同じ」であるということができると同時に、全てのものは「異なる」ということができる。任意の二つの存在者は、例えばそれが「存在者である」という点において「同じ」である。出来事を存在者としてカウントする存在論を採用すれば任意の二つの出来事について「同じ」であるということができる。「醜いアヒルの子の定理」というのがあって(渡辺慧の名著、『認識とパタン』、岩波新書を参照)、任意に選んだ二つの存在者間の類似性はすべて同じであることが数学的に証明できる。他方、誰がみても見分けられないほどよく似た二つの存在者であっても、それが「二つ」と認識される以上両者は「異なる」と言うことができる。そんな形而上学なんてどうでもいいと思われるかもしれないが、世界そのもののあり方としてはむしろ「全てのものは同じであり、全てのものは異なっている」というのが実態なのである。だからこそアマチュアがパソコンを使って「エニグマ」の暗号を解読できるような時代になっても人工知能とか自律的に活動するロボットをつくるのがこれほど困難なのだ。二つの存在者(出来事を含む)が「同じ」とされるか「異なる」とされるかは、結局のところわれわれと世界との相互作用における利害関心を反映している。二枚の千円札は、スーパーやコンビニや書店で買い物をする限りにおいて「同じ」ものであるが、コレクター的関心の下ではまったく異なったものにもなりうる。また、(時折あるように)自動販売機があなたの差し込んだ千円札を繰り返し突き返してくる場合にも二枚の千円札は「異なる」ものとして扱わねばならなくなる。結局のところ、ルワンダにおける大虐殺と関東大震災に乗じた朝鮮人虐殺とが「同じ」であるか「異なる」かは、自らがどのような利害関心でもってこの二つの出来事に向き合うかによって決まるのである。両者が「同じ」であるとするのはどのような利害関心によるのか、両者が「異なる」とするのはどのような利害関心によるのか。それを自ら語る用意のない者がこの件に関して語ることは、まるで無価値であると私は判断する。追記厳密に言えば、ルワンダの虐殺と関東大震災時の朝鮮人虐殺が「同じ」か「違う」かが直接争点となっているわけではなくて、『ホテル・ルワンダ』のパンフレットのなかでひきあいに出される事例として朝鮮人虐殺がふさわしいかどうかが問題になっているのだが、ここでは「同じ=ひきあいに出すのにふさわしいかどうかという観点からいって、同じ」「違う=ひきあいに出すのにふさわしいかどうかという観点からいって、違う」と理解していただきたい。「同じ」とする者はもちろん二つの出来事の間の相違点(無数に数えあげることができる)をいったん括弧でくくってみせるわけであり、他方で「違う」とする者は二つの出来事の共通点(これまた無数に数えあげることができる)を括弧でくくっているわけである。肝心なのはなにものかが括弧でくくられていることに自覚的であるかどうかであり、またそれぞれの言説においてなにが括弧にくくられているかである。また、「同じ」か「違う」かが「自らがどのような利害関心でもってこの二つの出来事に向き合うかによって決まる」以上、誰が誰に向けて語ったことばであるかも決定的に重要である。ホロコーストに対してスターリンの大粛正をひきあいに出す言説は、「ドイツ人がドイツ人に語る場合」「ドイツ人がユダヤ人に語る場合」「ドイツ人がロシア人に語る場合」「ロシア人がロシア人に語る場合」「ユダヤ人がロシア人に語る場合」等々でまったく異なる政治的効果を持つ。南京事件に対して文革や大躍進をひきあいに出す言説は、「日本人が日本人に語る場合」「中国人が中国人に語る場合」でまったく異なる政治的効果を持つ。この点を無視して二つの歴史的出来事を比較することの是非を論じることはできない(hokushu
さんの
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060228#p1
を参照されたい)。もうひとつ、虐殺を描いた映画を観る場合に、「自分も虐殺に加担する(ないし傍観する)立場になるかもしれない」という視点だけでなく「自分も虐殺される立場になるかもしれない」という視点をとりうる、というのは確かである。両者は必ずしも相互排他的ではない(どちらかを選ばねばならない、ということはない)。日本人が日本人を主たる読者として想定して書いた「日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」という一文は「自分も虐殺に加担する(ないし傍観する)立場になるかもしれない」という視点を強調するものであり、(おそらく)日本人が日本人を主たる読者として想定して書いた「中国でも通州事件の日本人虐殺からまだ百年経っていないのだ」という一文は「自分も虐殺される立場になるかもしれない」という視点を強調するものである*。では、フツ族でありながら虐殺に加担せず、ツチ族をかくまった人物を主人公とした映画のパンフレットにおいて、どちらの視点を強調するのが妥当なのだろうか? 私には答えは明白であると思える。*
他者を「歴史の知恵を欠く」と非難するエントリにおいて、中国ではなく冀東防共自治政府の下で発生した事件であることへの言及がないのはなんとも解せないはなしだ。通州事件に言及し「歴史の感覚というのは養ったほうがいい」と説くエントリにおいても冀東防共自治政府への言及はない。それともなにか、「日本人にとっては、こうした事態の萌芽があるかどうかが重要」というのは日本に対外膨張主義の萌芽がないかどうか振り返るべき、ということなのだろうか。
Posted: 日 - 3 月 5, 2006 at 08:37 午後
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