「非モテ」のミソジニーについて(29日追記)
追記部分は文末に
※「非モテ」叩きじゃないなんか「非モテ叩き」だとか言われて(http://d.hatena.ne.jp/VanDykeParks2/20060123/1138029223#c
の sin氏のコメント 2006/01/27
00:12)いて、そう思われてこちらに実害があるわけでは(今のところ)ないけれどとりあえず不本意ではあるので念のため言っておく。当該エントリにせよこのブログの過去のエントリにせよ、「非モテ」を「非モテ」であるということによって、あるいは「モテない」原因となる属性を有している(とされる)ことによって非難してもいないし嘲笑してもいない。私が言いたいのはなによりも「あのあけすけなミソジニーは見苦しい」ということであり、第二に「矛先の向けどころが間違ってる」ということであり、あのような振る舞いをするにあたって「非モテ」として自己規定しその自己規定をおのれの言説の根拠にしているのは「喪男道」に他ならないのだから、「非モテ」をわざわざ関連化させたのはトニオさんでも私でもない。そのうえで、こっちの勝手な問題意識としては「オタク的なもの」*1
と「保守的なもの」との親和性というのがありはするが、これとて「非モテ」という自己規定に基づく反動的な振る舞いが先にあってのはなしに過ぎない。「モテない男」*2
の存在を“社会問題”として私が認識するようになったのは山田昌弘の『パラサイト・シングルの時代』を読んで以降のことだが、例えばしばしば語られる「コミュニケーション・スキルの欠如」説に対しては「コミュニケーション・スキルが乏しくてもなんとかなった時代から、なんとかなりにくい時代に変わったというだけであって、コミュニケーション・スキルに乏しいとされる人間を責めてもしかたがない」という立場をとっている。そういえば、京大アメフト部員の強姦事件に関しても「コミュニケーション能力の低下」が背景にあるなどと語る社会心理学者が登場してしまっているわけだが、なんというか虚しくなってくるね。最盛期に比べて減少している青少年の凶悪犯罪のなかでも、もっとも顕著に減少している(激減しているといってよい)のが強姦なんだが。そして強姦の背景にあるのが(性的な)コミュニケーション能力の低さなのだとしたら、コミュニケーション能力はむしろ全体として向上していると考えねばおかしい。実際、この事件の場合加害者は被害者を(夜道で襲うのではなく)アパートにやってこさせる程度の「コミュニケーション能力」は備えていたと考えてもよいわけだ。記事の続きをみるとまたしても(またしても、というのは先にリンクを貼った私のエントリでも出てくるからなのだが)内田樹がコメントしている。こんどは「現代の若者は、長い目で見た時、自ら取った行動がどのような結果をもたらすか、という未来を予測する能力が欠如しているのではないか」だと。んなもん、犯罪なんて大抵の場合「長い目」で利害を考え損なうから起こすに決まってるじゃないか。これまた青少年による強姦が激減しているという事実を無視しているし。ほんま、バカバカしい。*1
「オタク=萌えオタク」ではないし、「オタク=非モテ」でも「萌えオタク=非モテ」でもなく、さらには「モテない=非モテ」ですらないわけだが、「非モテ」の多くが「オタク」として認知されまた自己認知しており、そのオタク性の核になっているのが「萌え」だという認識を前提しているわけだが、それでいいのかな?*2
ここでは異性愛者の男が「モテない」というケースだけが問題にされその他の「モテない」ケースはとりあえず分析対象になっていない。「異性愛者の女」がモテないケースとか「同性愛者の男」がモテないというケースとの異同は興味深い問題ではあるが、経済的な要因を「非モテ」問題の主たる要因(の一つ)と考えるなら、「異性愛者の男」に関心が集中することにはそれなりの合理性があろう。※kiya2014氏のコメントについてトニオさん経由で
kiya2014氏が私のエントリにブックマークコメントをつけていることを知ったのだが、それによればだーかーらー、その極端なミソジニーがどこから来ているかを無視せずに見ない限り、単なる煽り合いにしかならんって。ま、煽り合いは楽しいけどさ。あと、喪男はダブスタを実行「できない」からこそ喪男なんですよ。記事の内容には同意。なぜオタクがウヨ化するか。それは彼らが絶望しているから、社会変革の可能性に。「社会を変えることはできない、自分を変えろ」という言説が多数派である世界では、少数は保守るしかなくなる。とのこと(前者は『嫌オタク流』についてのエントリ、後者はその続きのエントリについてのコメント)。まず前者についてだが、トニオさんのところにトラックバックしている「読書感想日記」コメント欄でのやりとり(http://d.hatena.ne.jp/subscriber/20060125#c1138367263)を読んでちょっとした衝撃を受けた。ブログ主の
subscriber氏が「喪男道」の「覚悟」氏の「主張」を「喪男は自己肯定できていないゆえに苦痛を感じている。そのうえ、そういった喪男の苦境を世間で採り上げることはない。それゆえに疎外感が生まれ、その疎外感が苦痛となる。喪男のことを考えれば、彼らに怒りという形での自己肯定をうながすために、分かりやすい敵を作りそれを広めることには意味がある。北山女史のような倫理観は許せないし、それは他の喪男にもある程度通じるだろう。女史を叩く行為に異論はあるだろうが、喪男達の助けに少しでもなることに比べればさほど問題ではない。」と要約したところ、当の「覚悟」氏が「Subscriberさんの想像した私の主張は当たっています」「間違いなく目指すところの大きな柱ではあります」と、その要約を肯定したのである。なぜ私が衝撃を受けたか、ここの常連さんたちには説明しなくてもわかっていただけると思うが(w、「自己肯定」のために「敵」をつくりあげて叩く、というのはまさに宮台真司が「ヘタレ右翼」と呼ぶところの、おのれの実存不安を社会に投影して騒ぐ醜悪な振る舞いに過ぎないからだ。そして、自己肯定のために敵をでっち上げて叩くというのは(必ずしも右派の専売特許ではなく)しばしば行なわれることではあるが、それはみっともないことである、というコンセンサスは存在しているのだと思っていたからだ。韓国や中国を叩いている連中にしても「エンコー女子高生」を叩く連中にしても、「いやなにこれは私の実存的不安の反映です」なんてことは認めずに、あくまで表向きの理屈はつける(玉石混淆だが)わけである。もしそうなら、「あなたの憎悪は実存的不安の表出に過ぎませんよ」と指摘することに意味もあるというものだが、「はいはい、自己肯定のために敵をつくって叩いてるんですよ、それがなにか?」と言われてしまうとことばに詰まってしまうわけである。同様に“自覚された防衛規制”とでもいえる事態を物語っている*3
のが
kiya2014氏の後者のコメント。自己欺瞞がメタレベルに移行しているわけである。*3
再起的近代における精神分析の無効性、というか。もちろん、北田氏の言う「シニシズム」の問題でもある。※「非モテ」問題と左翼さて、社会と個人の間に齟齬がある場合に(むろん、その齟齬の内容にもよるわけだが基本的には)「社会を変えよう」というアプローチを重視するのが左翼であり、その意味で
kiya2014氏が「トニオさんはサヨク系だと思っていたので少し意外でした」と語るとき(http://d.hatena.ne.jp/VanDykeParks2/20060126/1138212092#c)その「左翼」理解は間違ってはいない(トニオさんのエントリの読解としては間違っている)。以下ではこの問題についてなぜ左翼的なアプローチが難しいかということと、かといって「保守る」ことが何の解決にもならんばかりか問題を深刻にするだけだということについて書くが、その前に先に引用した
kiya2014氏の第二のコメントについて。「なぜオタクがウヨ化するか。それは彼らが絶望しているから、社会変革の可能性に」ってさぁ、やっぱ甘え過ぎですよ。トニオさんが「なんというか、できない、とか、動かない、とか、そういう言葉の並ぶ主体性のなさだ。自分から決して何かしようとはしてないよね、これ。」と書くのももっとも。はっきり言ってしまうが、「絶望する」資格を得るほどになにかしたわけ? 勘違いして欲しくないのだが、「モテる努力をしたのか?」と聞いてるんじゃない。「非モテ」が一つの社会問題でありその解決にあたっては「社会変革」が主たるアプローチであるべきだ、ということを社会に理解させるための努力をしたのか? ということ。あまりこういう比較はしたくないが、(自称)障害者自立支援法案だとか公園からのホームレス排除のように当事者の生存すらが脅かされかねない問題の場合、「私ら絶望してますから敵をつくって叩いて自己肯定します」という“贅沢”すら許されんのですよ。「非モテ」が社会問題だというなら「非モテ」を自称するものこそが「社会変革」の道筋を描かなきゃ。だって左翼が勝手にあんたがたを代弁したらしたで文句いうわけでしょ?(後で問題にするように、この「代弁」の問題が左翼の退潮というより広い文脈での問題に関わってくるわけだが)。例えば「喪男道」擁護者たちは「フリーセックス」をたぶん“モテる男とモテる女だけがヤリまくることを正当化する思想”と誤解したうえで叩いているわけだが、「フリー・セックス」の基本的発想の一つはむしろ「モテる人間/モテない人間」という階層が生じるのは不当だからそういうことがないようにしよう、ってものであって、まさに「非モテ」解消のための「社会的変革」を目指してるんだってば(なお、叩かれている人物が「フリー・セックス」の信奉者なのかというと私が断片的に読んで理解した範囲ではそんなことはなくて、普通にリベラルなセックス観の持ち主というだけでしょう)。それから「(社会変革に絶望したから)保守るしかない」ってのもおかしなはなしで、「保守る」んだったら「自分を変えろ」というメッセージにしたがわなきゃ。(あとでも問題にするが)それがいやだってのは保守のモラルをきっちり内面化して生きることもできてない、ってことでしょう。たぶんネットの右傾化全般について言えることだと思うのだが、「保守として生きる」つもりもなく右っぽいガジェットを「自己肯定」のために使ってるだけなんじゃないの? そりゃそうだよねぇ。「保守のモラル」を(他人ではなく)自分に適用したらさらにつらいだけだもんね。リベラルのモラルと違って保守のモラルは「大人になったらちゃんと働いてちゃんと結婚しろ」って迫るからね。だとするとモノホンの保守には都合良く使われるだけでいつまでたっても「非モテ」が周辺的な存在であることには変わりないわけよ(小泉政権にとって「B層」が「B層」のままでいてくれることが都合が良いように)。でもって、「自分を変えろ」というのがやだ、というのはこういうことですよね? 「非モテ」がモテない原因とされる一群の特徴(身なりへの無関心とか、萌え趣味とか)のうちいくつかは彼ら自身のアイデンティティの中核をなしていて、モテるためにそれを変えるのはいやだし変えることを要求されるのは不当だ、と。しかしだとしたら、なぜそのアイデンティティ自体を「自己肯定」の根拠にできないわけ? なんで「叩くべき敵」が必要なの? 敵がなきゃ自己肯定できないってことは、要するに「非モテ」アイデンティティの核にあるものでは自己肯定できないってことでしょ? だとしたらそんなものに固執しないで変わればいいのに。それってアイデンティティ・ポリティックスの最悪のかたちでの実践じゃないですか? 自分でも全面的に肯定できない属性を「変えたくない」「変えろと迫るのは不当だ」って叫んでも他者の理解は得られないと思うなぁ…。萌えオタが萌えオタであることでもって自己肯定し、誰かを「敵」に仕立て上げたりせずに生きるのであれば、私は少なくとも政治的には彼らを擁護しますよ。「自分を変えろ」という言説を批判しますよ。でも「敵」が必要だってことは「非モテ」は自分で自分を肯定できてないわけでしょ?※「非モテ」問題の困難さこれに先立つ関連エントリへのコメント欄ですなふきんさんが指摘している「経済的視点」というのは、身も蓋もない言い方をすればこういうこと。特定の女性(*2
で述べたようにここでは異性愛の男の「非モテ」に限定)と安定した性愛的関係をとり結ぶには経済的なリソースが必要となるが、不況のしわ寄せが特に若年労働者にいっているために必要な経済的リソースを確保できない若者が増えている、と。これにもマクロ政策により景気が回復すれば解消されるであろう部分と、労働環境の不安定化そのものは趨勢として変わらないので女性の父親が比較的安定した雇用に恵まれた世代に属している限りはあまり改善しないであろう部分(山田昌弘などが問題にしていた側面)とがある。で、これらのどちらについても左翼は「社会変革」を主張することができるし、またしてきている。さらに経済的リソースに乏しい男が「非モテ」になりがちなのは女が経済的に男に依存せざるを得ない構造があるからだ、と考えるのがフェミニズムで(ここではフェニミズム内部の多様性を捨象)、「女が男に経済的に依存する構造を変えれば、経済的なリソースに乏しい男がモテないという事態は変わる」と、これまた「社会変革」の見取り図を描くことができるわけだ。とはいえ、例えば経済のマクロ的な状況がよくなれば「非モテ」は解消するかといえば、「緩和されるけど解消しない」だろう。モテる/モテないを決定するのは経済的なリソースだけではなく、モテに関わる非経済的なリソース(ファッション・センスやコミュニケーション・スキルといった文化資本、それから容姿など)のある部分については経済資本との交換によって向上させることができるが(例えば服に使う金を増やす、ってこと)それにも限界があるからだ。他方で(例えばフェミニストの構想が相当程度実現して)経済的リソースの多寡が非関与的になれば逆に非経済的なリソースでの競争が行なわれることになってしまう。経済的なリソースというのは再配分のやり方がはっきりしているし、これまでも(別の目的で)行なわれてきたから政策提言としてやりやすい。ところが非経済的なリソースについてはどうすれば偏りを再配分で正すことができるのか、はっきりしないわけだ。例えば女が男を顔で序列化しないようにするにはどうすればいいか? 話し下手な男がもてるようにするにはどうすればいいか? 非経済的なリソースでも世代間で格差が再生産されるもの(例えば学歴)については従来も目が向けられてきたし、対処の仕方についても議論の蓄積があるわけだが、モテ/非モテに関わる文化資本の再配分には必ずしも使えない。文化資本の「格差」とはいっても、それが不当に形成された格差だと認知されない限りそれは「多様性」としてとりあえず肯定されることになってしまう(むしろ否定することが不当だとされる)わけで、例えば「身なりにかまわない」ことはいま現在個人の自由な選択として肯定される(べき)ということになっている。他方で「身なりにかまわない」という属性をモテ/非モテにとって非関連化するには女による男の認知を変えなければならないわけだが、そうした介入を正当化するロジックも左派は持ち合わせていない。というわけでここに至って身動きがとれなくなってしまうわけだ。これに対して保守のモラルはきっぱりとした解決策をもってますよ。男に対しては「もうちょっとちゃんとした身なりをせよ」と命じ、女に対しては「多少身なりが見苦しくてもちゃんと稼いでくるなら我慢しろ」と命じるわけ。ところが「自分を変える」のはいやなんでしょ、「非モテ」の方々は? いったいなにを望んでいるのかよくわからないところもあるのだが、「ありのままの自分を肯定しながらかつ最低限度モテるようになりたい」のだとすれば、「非モテ」は女に対して認知構造を変えろと要求していることになる。だけどこれってダブスタなんだよね。自分については「ありのままの自分でいいんだ」というリベラル的な寛容を要求しつつ、女に対しては「ありのままの自分」であることを拒否しているわけ。上で「保守のモラルをきっちり内面化」するつもりもない、と書いたのと同じくリベラル的寛容に徹してもいないわけ。もちろん、リベラル的寛容と保守のモラルの都合のいい使い分けに走りたくなる事情はわかる。とりあえず簡単だしね。わかるけどそれじゃなんの解決にもならないことは明らかだし、むしろ自分で自分の首を絞めているように思う(どちらかに徹底すればまだしも事態は動くのに、こういう使い分けをしている限り身動きが取れないから)。となるとやはり問題なのは「非モテ」という自己規定なんじゃないのかなぁ…。この自己規定がなければ「社会問題」として訴えかけることはできないから、ひとまず戦略的に「非モテ」と自己規定しなければならないのは確かだけど、その自己規定によって自己肯定できず(そして敵をつくらずにはおれず)、にもかかわらずその自己規定に執着するというのはまずいでしょ、やっぱ。自分にとっても他者にとってもろくな結果にならんですよ。※その他の論点日本の(オールド)左翼にはパターナリズム的傾向が強いので一概にいえないところはあるが、全体として「オタク」的なものに寛容だったのは左派の言説である、というのは確実に言えるだろう。にもかかわらずどうしてオタク的なものと保守のモラルが結びついちゃうのか(『攻殻機動隊』、特に原作とテレビの
Stand Alone Complex
で「公安的なもの」がほとんど屈託なく肯定されているのをかつて問題にしたことがある)…というのが左翼の側からは問題になるのだが、すなふきんさんとのやりとりを通じてこれはいまに始まったはなしじゃない、ってことに気がついた。プロレタリアートが共産党(あるいは社会党)を支持するわけじゃない、女性がフェミニズムを支持するわけじゃない、というのは常に左翼的な運動の抱えている問題であったし、この問題への自覚が十分でないことがバックラッシュを許している要因の一つでもあるだろう。なぜそうなるのか? ということについてはっきりした答えはないのだが、一つ考えられるのは「抑圧された者を代弁する者」はかならずしも豊かな経済資本をもたないけれども多くの場合豊かな文化資本をもっているということ。経済資本も文化資本も十分にもたない者からみれば「代弁しようとする者」だって「持てる者(モテる、じゃなくて)」の側に属することになるわけだ。これと関連して、竹内洋の『丸山眞男の時代』なんかでも問題にされていたことだが、政治的闘争のために用いられる理論的言説を受けつけないようなハビトゥスがあるんじゃないか、と(ここではブルデューの枠組みに主として依拠したが、レイコフ的な分析でもかなり近い結論になると思う)。例えば先行するエントリのコメント欄で
MacacaFuscataさんがオタク文化を「不良文化を排除したサブカルチャー」と規定し「”優等生”による自己肯定のための不寛容」という分析をしておられる。「不良文化を排除したサブカルチャー」というのは「オタクかヤンキーか」というオタク自身による二者択一(『嫌オタク流』参照)からしてもその通りだと思うのだが*4、にもかかわらずオタクのメンタリティにマッチョなところが相当ある(『嫌オタク流』でも「オタクはマッチョ」説が語られている、99ページなど参照)のも間違いないところで*5、これが保守のモラルとの親和性を生んでいるという仮説を立てることができる。実際、「喪男道」が露呈している保守的な性道徳は、実はヤンキー文化に非常に近いのではないか(「純愛」好きなところとか)。実は同じようなハビトゥスを身につけていながら、それをそのまま生きることができるかできないかでヤンキーとオタクに分かれている、というか。だとすると似たようなハビトゥスを前提とするのでなく、異なるハビトゥスをもつ者に向けて語る戦略というのが必要になってくるわけだが、これは難しいですねぇ…。*4
同じくコメント欄でN・Bさんが「原オタク」世代—私自身はこの世代の尻尾か、第二世代の頭というあたりに位置しているのだが—とその劣化コピーとの違いに言及しておられるが、オタク第一世代は少なくとも主観的には「不良文化」を排除していなかった、むしろ不良的にふるまう一つの仕方としてオタク的なものを位置づけているように思える。*5
個人的には「萌えアニメ」が消滅しても痛くも痒くもない私だが、オタクのマッチョ性のもう一つの現れである「コレクション志向」なんかは明らかに共有している。というかかなり重症。29日追記はてなのブックマークコメント、およびここでいただいたコメントのうちコメント欄で応答していないものについて。え〜、まず第一に私はネットでの「非モテ」「喪男」論議をほとんどフォローしてないんで、第二に複数の目論見を一つのエントリに盛り込んでいるもんで、用語法で違和感もつ人がいるかもしれません。『電波男』発売のはるか前から「しろはた」はチェックしてたから少なくとも文脈の一部は押さえているつもりですが。議論の妥当性に関わるような問題があると考える人はコメントください。enemyoffreedom氏のコメント>なんかだんだん「大衆はダブスタでずるい」という話になってきたなw そりゃずるいでしょ「大衆」というはなしにはしてません、とりあえずここでは。さしあたり「モテない」ということで自己規定したうえで「敵をつくって叩く」という振る舞いが考察の主たる対象です。もっと広い文脈も視野に入れてますが、「大衆」ではなくもう少し限定した階層を念頭においてます。kiya2014氏のコメント>一つだけ書いておくと、非モテは自己矛盾して身動きがとれないからこそ価値があると思うの。だって、本気で現実世界で社会変革なんて唱えたら迷惑なだけでしょ。ネットで発散してオナニーして死ねばそれでいい。こないだとは全然はなしが違ってますよ。「社会変革の可能性に絶望」してたんじゃないんですか? まさか「迷惑だと思われるからできない、絶望だ!」ってなチンケなことおっしゃるつもりじゃないでしょうね? だいたいにして、あらゆる政治時的主張はそれに同意しない者、関心をもたない者にとっては「迷惑」ですよ。だけど、その「迷惑」が「具体的な侵害」にならない限りは*6
許容する、というのが自由な社会に生きるためにわれわれが甘受すべきコストでしょ。たしかに「反戦ビラ配るやつは迷惑だから逮捕されて当然」って考える人間は、「非モテは自己主張せずにひっそりと暮らせ」って言うかもしれません。しかしそう言わせるのは他ならぬ「保守のモラル」なんですわ。だからこそ、私は「あなた方が依拠する保守のモラルこそが、あなたたちを身動きできなくさせている」って主張しているわけ。迷惑、結構じゃないですか。ビラ配るのもデモするのも市民の正当な権利ですよ(それ以上のはなしについては別途相談ということで)。そもそも、「社会変革なんて唱えたら迷惑」だからやらない、と言っておいて「ネットで発散」するのはオッケーなんですか? 「喪男道」みたいなだだ漏れのミソジニーだって私みたいな人間には十分「迷惑」ですよ(バッシングされている当事者にとっては「迷惑」ではなく明確な「侵害」だけど)。それこそ道を歩いていたらゲロがぶちまけられていて危うく踏みそうになった、という程度には迷惑です。しかし「社会変革」を訴えるための「迷惑」だったら私は許容しますよ。「迷惑だから止めろ」と言うやつは批判しますよ。それでも迷惑だからやらない、というのならネットで発散するのも止めてそれこそオナニーだけして死ぬのが筋じゃないですか?それに、「迷惑だから(ネットで発散する以外には)なにもしない」ことが「自己矛盾して身動きがとれないからこそ価値がある」ことの理由になりますか? なりませんね? 「自己矛盾して身動きがとれないからこそ価値がある」と主張するなら、それこそ“身動きのとれなさ”をとことんまで生きなきゃ。それができないから「ネットで発散」だけはするわけでしょ? 繰り返しておくと、保守的な道徳に頼るのは楽かもしれないけど「非モテ」を追いつめてるのは他ならぬ保守的な道徳なんですよ。*6
だから、例の「反戦ビラで住居不法侵入」事件と「反戦落書きで建造物損壊」事件との間に一線を引くべきだ、ということはできる。後者についての一審判決は、例えばこの件で公安が動いたという一点だけをとってみても不当だと考える一方で、もし「刑事警察だけが動き任意の取り調べのみで建造物損壊ではなく器物破損」だったとしたら「まあやる方もそれくらいは覚悟しとくべきでしょう」と考える人間は少なくないだろう。このエントリのコメント欄での「あきのそら」さんのコメントについて。順番は前後しますが。>実際問題恋愛対象は絶対的に他人である可能性が高いわけで母性的な受容やほぼ不可能であり「母性的」という言葉を使うかどうかは別として、ここはこのエントリでの私の論旨と基本的に一致してますね。「あるがままのオレを愛せよ」という要求は相手をあるがままに受けいれるならば不可能であるわけで、それを親でない人間に要求するのは不可能だ、ということですね。>守るべきアイデンティティーと許容すべき他者の常識のバランス感覚がオタクに欠如していることが問題であるのではないでしょうか?個人的には「常識」とか「バランス感覚」とかは言いたくないんですが(笑)、要するに「あなたにとってそれだけで自己肯定できるようなアイデンティティの核はなになのですか?」ってことですね。自己肯定の根拠にできないような属性に固執するのは「ほんとは変わってもいいかなと思ってるけど変わるのがめんどくさい」のを言い繕ってるだけだと言われてもしかたないよ、と言いたかったわけです。いや、「変わるのがめんどくさい」というのを責めるつもりはありません。誰にだってそういう気持ちは多少なりともあるでしょう。だけど、自分が変わるのはめんどくさいから他人を叩く、ってのはあまりにはしたないよね、と。
Posted: 土 - 1 月 28, 2006 at 01:02 午後
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