なぜ一部(大半?)の反対派とのコミュニケーションが困難なのかについて
あるいは生産的な議論が成立するための条件について
このエントリでとりあげたブログにつけたコメントをめぐるやりとりを通じて、貴重な教訓を得ることができた。「正しい結論」に至るためには(「正さ」の蓋然性を無視して単純化すれば)、正しい前提から妥当な推論を行なわねばならない。そこで、議論においては・相手の前提が間違っている・相手の推論が妥当でないのいずれか、あるいは両方*
を示すのが目的となるわけである。言い換えれば、論争相手との間で結論が分かれる際にはまず、「前提は共有されているが推論の筋道が異なる(一方が間違えている)場合」なのか、「どちらも妥当な推論は行なっているが前提が共有されていない場合」なのか、それとも「前提も推論の筋道も一致していない場合」なのかをはっきりさせてゆくことが必要となるわけである。3つめのケースにおいては、次に「前提」のずれから解消するか「推論の筋道」のずれから解消するかを整理しなければならない。さもなくば、いつまでたっても議論は煮詰まらない。あのエントリ(および相手先でのコメント)で私が行なおうとしたのはこういうことである。私には鷹森氏の議論は「前提も推論の筋道も間違ったもの」だと思われたが、それでは論点が複雑になるためまずは「推論方法の間違い」を指摘し、その点について了解が得られた後に「前提の間違い」(これは私の認識であって、氏からすれば私の前提が間違っていることになる)に進もう、ということである。だがこの意図は鷹森氏だけでなく素一氏にも理解されなかった。素一氏は鷹森氏が「解放新聞」を誤読していることを認めていながら私の意図を理解できないとはどういうことなのか…と不審に思っていたのだが、ついに理由がわかった。>、二つ目の記事(の引用箇所)が人権擁護委員の権限についてなにも語っていない
ロジックとしてすでに何度も答えられているはずです。>次のいずれかを示すことが前提として必要です。1.実は人権擁護委員には大きな権限がある2.人権擁護委員の権限を強化することを求めている勢力がいる そこが基本の違いですね。 表面的な「権限」にこだわってしか考えられない人とは、始めから話は無理でしょう。一行目の引用部分は私の文章であり、鷹森氏の結論(人権擁護法は危険だ)の妥当性はともかくとして、氏の論証方法(引用された「会報新聞」の記事を根拠とすること)が間違っていることを指摘しようとしている。ところがこれに対して素一氏は、例によって独り合点の目立つ文章で、「人権擁護委員には強大な権限があるということは、何度も主張してきた」と答えているわけである。二番目に引用されている私の文章は、「人権擁護委員には強い権限がないから人権擁護法は安全だ」とする主張を論駁するために必要な条件について述べた部分である。その条件が(大別すれば)私の挙げた二つになるだろうことは、たとえ反対派にとっても了解可能だ…と思ったのである。だが甘かった。「そこが基本の違い」なんだそうである。私は論証の方法について論じているのに。ここで素一氏がどれほど私の意図を誤解しているかは、 表面的な「権限」にこだわってしか考えられない人とは、始めから話は無理でしょう。という一文から明らかだろう。先ほど私が挙げた1.、2.の条件をみてもらいたい。2.の条件は条文上の「権限」とは別に「背後」にいる「勢力」に言及している。つまり「人権擁護委員には強い権限がないから人権擁護法は安全だ」という主張を覆すための選択肢として、条文からはわからない政治的な事情を指摘すること、をきちんと認めているのである。ここではっきりしたのだが、素一氏にとっては(そしてコメントから推測するにおそらく鷹森氏にとっても)、「結論の正さ」「推論の妥当性」「前提の正さ」と言った区別はなんの意味ももたないのだ。彼らにとって議論とはとにかく自分の「結論」が正しいと主張することである。自らの推論の妥当性を主張するとか、自らの前提の正しさを主張するといったことは念頭にないのだ。というより「結論」「推論」「前提」が渾然一体なのであろう**。私は「推論の妥当性」→「前提の正さ」→「結論の正さ」という順序で議論を進めようとしているのに、ひたすら「結論」から出発して私に反論しようとしているのであるから。これではコミュニケーションが成立しないはずだ。「前提」と「推論」と「結論」が渾然一体となっていれば、全ての反論は「ただ結論を否定しているだけ」のものにみえてしまうのだろう。こちらが推論方法を批判しても「結論を否定された」と思い、前提の間違いを指摘されても「結論を否定された」としか思わない。こちらの議論に反論する場合にも、「推論プロセスの間違いを指摘する」とか「前提の間違いを指摘する」という意識がないから、こちらにとっては「反論ではなく自説を繰り返しているだけ」にみえてしまう。さて、このような場合、いったいどうしたものだろうか…。*
二値論理では妥当な推論は真理保存的であるから、間違った前提から妥当でない推論を行なうと結論は真になる。しかし正しさの蓋然性や妥当性の度合いが問題になるような推論においては、間違った前提から間違った推論を行なうと前提以上に間違った結論が出てくることもある。**
おそらくその原因の一つは、「解放同盟は邪悪な集団である」という前提が彼らにとってはアプリオリに真なものとされており、しかもアプリオリに真とみなしていることが自覚されていないこと、ではないかと思われる。 ちなみにこの「前提」に関する私の見解をここで述べておく。部落解放同盟が日本社会において影響力をもとうと意図していることは事実で、いまさら語る必要もないことである。では彼らは日本を「支配しよう」「牛耳ろう」と思っているのだろうか? 「もしそんなことができるなら、そうしたい」とは思っているだろう。しかしこれはおよそあらゆる政治団体について言えることだ。政権を取ることを望まない政党があるだろうか? 政権与党に影響力を行使したいと考えない政治団体があるだろうか? したがって、「もしそんなことができるなら、そうしたい」という願望は野望にはほど遠い。野望と言うからには、「そうしたい」と望むだけではなく「そうできる」という現実的な自信があるか、「そうできるようになる」ための現実的なプランをもっている場合だけ、であろう。例えばイチローは4割打者になるという野望を持っているかもしれないし持っていてもおかしくないが、この私が(大リーグで)4割打者になるという野望を持つことは、たとえ主観的にはどれほど熱望していようと、客観的に不可能なのである。例えて言うなら、部落解放同盟が日本を「支配する」「牛耳る」という野望を持つとは、この私とは言わんまでも新庄クンが4割打者になろうという野望を持つようなものである。彼もまた大リーグでレギュラー選手だったことがあるのだから、4割打者になる「可能性」はあった。しかしまともな野球ファンはもとより新庄選手自身だって「4割打つだろう」とはまるで考えなかったはずである。人口比にして1%に満たない被差別部落出身者、そのまた一部の利益を代表するに過ぎない部落解放同盟が懸命になるとすれば、それは「日本を支配する」ためではなく「政治プロセスから無視されずにすむ」ためである、と考える方がはるかに自然であろう。人権侵害救済法案について別館で書いた際にも述べたことだが、政府案と民主党(解同案)の違いは彼らの「なんとかして人権委員会の一角に食い込みたい」という(「日本征服」に較べればずいぶんと)控えめな願いを反映していると考える方がはるかに無理がない。
Posted: 日 - 5 月 8, 2005 at 08:59 午後
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