「人権擁護法案」論争の総括のための予備的メモ その2



日本国憲法における「人権」規定は言うまでもなく国家が立法や法の運用において侵してはならない権利を定めているのであって、狭義の「人権侵害」と言えば国家権力によるもの(人権擁護法案なら第3条第1項1号イにあたるようなもの)を指す。新たな行政機関ができれば、原理的にはこの意味での人権侵害の新たな可能性が発生するというのは反対派の主張する通りである。したがって人権擁護法が対象とするような人権侵害事件を地域社会なり市民社会なりのレベルで自発的に解決できるのならそれに越したことはないわけだが、事実問題としてはなかなかそうもいかないわけで、そこに an_accusedさんの言う「行政による人権保護というねじれ」が生じざるを得ないゆえんがある。前回のエントリへのコメント欄で

人権擁護法反対派はこの法案が「悪用」されるおそれを喧伝していたわけですが、真の問題はこの法律がうまく機能し、だれもがこの法律に満足してしまうことの方にあると考えるべきでしょう。

てなことを書いたのも、この法律が成立し、うまく機能し、日本社会にとってなくてはならない法律になってしまうような事態はまさしく市民社会の敗北を意味するからである。

そして連休中にまたしても「事実問題としてはなかなかそうもいかない」ことの例証が。日曜日あたりから暑気あたりで体調を崩してネットの巡回も書き込みも端折りモードになっていたのだが、昨晩若隠居さんのところを拝見してびっくり! 「韓国人に部屋を貸したら勝手に柱をピンク色に塗られたので、韓国人お断りを宣言した大家」という事例についてはこちらでちょこっとコメントしただけで手を引いていたのだが、この問題をメインに扱った若隠居さんのエントリに100を越えるコメント(これを書いている時点で143)がついているのである。はっきり言って、100以上もコメントがつくようなイシューじゃないでしょ。といってももちろんコメントに対して丁寧に対応しようとしている若隠居さんとその支持者に言ってるんじゃない。あれこれ手を尽くして大家を弁護しようとしている連中ね。だって、これって教科書的というか典型的というかパラダイムケースというか、要するに非の打ち所なく「差別的取り扱い」の事例だもの。これが差別じゃなかったらなにが差別なの、と。
いうまでもなく、例えば「差異の政治」を批判して「差別」概念を再検討しようなどといった志に基づくものなんてあるわけもなく、なかには「世間」を持ち出して大家を擁護する主張まである始末。「世間」を引き合いに出すなら、その「世間」がこれを「差別」だと判断する* ことも受けいれろよ、と。自治会とか商店街の会合なんかでこんな擁護論が通用しちゃうようだと人権擁護法という「ねじれ」はやっぱり必要だと言わざるを得ないですわな。

今日アップした別のエントリでとりあげた『福沢諭吉の真実』において『時事新報』の差別的論説の書き手として名指しされている石河幹明。その石河が書いた(と著者の平山洋が断じている)論説の一つなんかもういまの反中・反韓言説とそっくり。中国人はしっかり監視しておいて、犯罪を犯したら直ちに捕まえろ**、ってな調子だから。戦後民主主義が云々とか行き過ぎた人権教育が云々というのにまともに反論するのがもうバカらしくてしかたないくらい、この100年間差別主義者の考え、書くことは変わってないわけですよ。笑っちゃうやら泣けてくるやらうんざりするやら複雑だけど。

まあ唯一の救いは彼らにしたたかさというか戦略的な発想がないことだろうか。大家が「○○人お断り」と宣言できなくなるから人権擁護法に反対だ、などという主張はさすがに自民党内でもまともには扱われんだろうから。与謝野政調会長が言うのとは別の意味で「勉強能力が無い」っていうか、無くて幸いですよ。

* と信じたい。楽観的すぎるかな? なにしろ首都の知事が以下略。
** 通勤の電車で読んでて本を職場に忘れてきたので、正確なところは後日コメント欄で補足する。

Posted: 火 - 7 月 19, 2005 at 10:02 午後          

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