与太者さんへの返答(その2)


未完成ですがとりあえずアップします(14日午前2時半)
追記(14日午前11時半)
追記2(15日午前11時半)
与太者さんのコメント追加、エントリに追記(17日)

前回のエントリに対して頂戴したコメントの後半をHTML化してこちらにアップしました。後半には5月17日に頂戴したコメントも追記しております。このエントリはこのコメントを前提しておりますので、閲覧者の方にはあらかじめご覧いただくようお願いいたします。

1.総論
まず、

書いてて実感したんですが、この種の議論は最初に基本的な考え方を明らかにした上で、総論→各論という形で 議論を重ねてゆくべきで、各論について他人が論争してるときに途中でチョッカイ出すと、纏めるのがエライ大 変なことになりますなぁ・・

という点について。実際には各論を巡る認識の相違が総論での食い違いを生んでいるといったケースもあるので、「総論→各論」と「各論→総論」という往復運動が必要にはなると思うのですが、今回の場合は確かに「総論」から進めていった方が相互理解(合意なり合意に至れないことの合意なり)にとってよさそうですね。

順番は前後しますが、まずは

もう一つは、人権保護法案に限った話しではありませんが、国民の権利を制限し或いは義務を課す公権力の行使は、必要最低限に留めるべきであるのが自由主義社会の前提だと考えますので、人権擁護法案の目的は既存の法律や制度、或いは他のより制限的ではない方法により達成することができないのか、という点です。

この点についてはとりたてて異論はありません。要するに「必要最低限」の具体的な評価が異なるということ、また人権擁護法がどの程度「制限的」であるかに関する評価の違い、ということでしょう。つまり私は人権擁護法がたいして「制限的」な方法だとは思っていないし、それゆえ「必要最低限」という要件を満たすと考えている、ということです。順序は逆になりますが

それは兎に角、理由の最大のものは、この法案が言論の内容そのものを人権侵害として規制しようというもので、しかも禁止される人権侵害の中に、「民族、信条」、特に「信条」という政治的色彩が強いものが含まれているため、政治的な言論が抑圧されてしまうという、民主主義が機能するための前提を危うくするものだという点 です。

という点を巡って具体的に論じたいと思います。
まず、人権擁護法が「言論の内容」を規制するものだとするのはいかがかと思います。「特定の者に対する」「人種等を理由とする」という要件は形式的なものです。たしかに「人種等」の中に「信条」が含まれる点については私にも全く違和感がないわけではないのですが、第3条1項1号とのからみでは必要になってくる項目でしょう。いずれにせよ「特定の者」を対象としない、特定の信条に対する表現はたとえどれほど侮蔑的であっても人権擁護法の禁止するところではありません。
ご存知のように人種差別撤廃条約は

(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。
(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

を締結国に求めているわけですが、これに対して人権擁護法はいかなる差別的言動についても「勧告の公表」か「差し止め請求訴訟」以上の措置をとりません(しかも後者は第3条第2項に該当する行為の場合のみ)。現にヘイト・スピーチを刑事罰の対象としている国があることを考えても、人権擁護法がとりたてて「制限的な方法」であるとは言えないでしょう。私はむしろ、特定の団体を敵視し「人権委員会が暴走する」と決めつけるような言説にこそ、「民主主義が機能するための前提」の危うさを感じます。「民主主義が機能するための前提」を重視されるのであれば、たとえ「勧告の公表」というリスクを負ってでも政治的発言を行う気概を市民に要求してしかるべきです。しかも日本には既に「言論の内容」に対して懲役刑を科すことのできる法律があることを考えれば、なぜたかが人権擁護法ごときを問題にするのかが理解できません。言論弾圧は住居不法侵入罪をつかって行うことだってできるのです。さらに「勧告」を受け入れてしまえばそれを公表することもできなくなるわけですが、「人種等を理由とする」「特定の者に対する」という要件は形式的なものですから、とりあえず勧告を受け入れたうえでこの要件に引っかからないかたちで実質的に同じ政治的言論を発表することだって可能です。
要するに、「国民の権利を制限し或いは義務を課す公権力の行使は、必要最低限に留めるべき」だとしても、人権擁護法は「国民の権利を制限し或は義務を課す」度合いが極めて低く、これによって「言論弾圧」が生じるとは到底言えない、というのが私の認識です。
さらに与太者さんに対してではなく反対論一般について付言すれば、「国民の権利を制限し或いは義務を課す公権力の行使は、必要最低限に留めるべき」というのが今の日本で(そして法案反対論者の中で)支配的な政治思想だとは思えません。現に憲法21条を改正しようとする議員が人権擁護法に反対したりしているわけです(w
また理念レベルではなくリアル・ポリティックスのレベルで言えば、「人権擁護推進審議会」の答申が出た時点で人権擁護法に類する立法を行うことは既定路線になっています。もちろん、「だから今更反対するな」などと言いたいわけではありませんが、与太者さんの立場は政治的に有効な反対論とはなり得ないのではないか、ということにすぎませんが。

以上はいわばこの法案に「反対しない」理由ですが、同じ論点で「(あえて)賛成する理由」を挙げるなら次のようになります。一言でいえば「国民の権利を制限し或いは義務を課す公権力の行使」にとって代わるべき市民社会(ないし地域社会)の批判機能、相互扶助機能が十分にはたらいていない、ということです。人権擁護法が対象とするような差別的取り扱い、差別的言動、各種虐待に対して立法を行わないのであれば、市民はこれらの事件に対して市民として積極的にとりくむ義務を負うことになります。しかし差別的言動一つをとっても、いくつかの反対派サイトをご覧になればわかるように、市民間の相互批判による淘汰などなかなか期待できないのが現状です(石原慎太郎の差別的発言に対する社会の反応を根拠にあげることもできるでしょう)。市民社会が差別的言動に対して厳しい態度を取れないのであれば、立法による救済を考えることを批判できないのではないか、ということです。

2.各論
ここについてはまず「一般救済手続き」のケースと「特別救済手続き」の場合とを分けて考える必要があるかと思います。
まず特別救済手続きの対象となる各種人権侵害について。私は最初に「人権擁護法案」を読んだ時点で、例えば第3条がどのような行為を禁止対象としているかがきわめて具体的に想像できたので、いまに至るも「なぜ曖昧だと言われるのか?」がよくわからないというのが正直なところです。第3条で「人権侵害」という概念が(一度だけ)用いられているのは、同条が多様な行為類型をカヴァーしているからという技術的なものであり、煩瑣になるのを厭わなければ「人権」という語を用いずにすませることもできるでしょう。したがって

とのご意見ですが、私が指摘しているのは「人権侵害」という「言動」の中に「人権」という権利、即ち具体的 な事実(行動でも同じですが)ではない、観念的な要素が持ち込まれているということです。

という事情が、第3条における規定を曖昧にするとは思えません。刑法230条にも「名誉」や「公共の利害」といった「観念的な要素」は含まれていますが(というより、そうした「観念的」な規定しかありませんが)、この条文が「民主主義が機能するための前提」を脅かすまでに濫用されてきたという“実績”があるのでしょうか?
なお

ただ「刑法にしてもその相当部分は「人権侵害」を禁じるものです。ただ刑法の場合はさまざまな人権侵害のうち顕著な類型ごとに個別の条文をもうけ」という部分については同意致しかねます。
刑法は刑事訴訟法とともに国家の刑罰権発動の要件を定めたものであり、直接人権擁護を目的としたものではな いこと、寧ろ刑法と人権との関係に関する憲法の基本姿勢は、国家の刑罰権行使の要件を可及的に厳密化するこ とにより国家から国民の人権を守るというものであり、このことは憲法の人権規定のうち10条(31条乃至4 0条)が刑罰権行使の制約に充てられていることからも明らかだと思います。

という部分について。私が問題にしているのは刑法の「目的」ではありません。どのような行為類型がどのように(どの程度)規定されているかを比較するために引き合いに出したまでです。また与太者さんの最初のコメントにある

一番抽象度の高い筈の憲法ですら、「人権」という抽象的文言は総則的部分にしか用いず、基本的人権の内容 については個別具体的に規定しているのですから、より低位の法である「法律」では、より具体的な定義・規定 がさるべきであるのに、この法案では「『不当』な差別『的』取扱い」という、寧ろ憲法よりも抽象的な文言・ 定義しかしていないのです。

は第3条を念頭に置いておられるのだと思いますが、だとすると

国又は地方公共団体の職員その他法令により公務に従事する者としての立場において人種等を理由としてする
業として対価を得て物品、不動産、権利又は役務を提供する者としての立場において人種等を理由としてする
事業主としての立場において労働者の採用又は労働条件その他労働関係に関する事項について人種等を理由としてする

といった限定を無視している点で正当な批判とはいいがたいと思います。「不当な差別的取り扱い」という文言だけを見ればなるほど抽象的であっても、上記の限定句をみればそれがどのような行為を規定しているのかが具体的にわかります。
次に一般救済手続きの対象となる「人権侵害」について。この場合は第2条における「不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為」という規定しかないのはその通りです。ただこの点について、人権擁護法が対象とする「人権侵害」の外延が、民法上の不法行為のそれを越えるものではない、という点をどう理解しておられるのかをまず確認させていただきたいと思います。

第709条 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

与太者さんの議論によれば人権擁護法よりはまずこの民放709条こそが廃止されるべきである(「一般救済手続き」とは異なり、権利義務の発生という法律効果をもつのですから、なおさらです)、ということになるはずだと思いますが、いかがですか?

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以下は5月17日の追記分です。
まず「 第1 民主主義制度の根底を破壊しかねない」については、このエントリに私の見解をすでに書いてありますので、そちらにコメントを頂戴できればと思います。二点だけ強調しておけば、日本にはすでに言論を刑事罰の対象とする法律があること、また人権擁護法は禁止対象となる差別的言動を「特定の者に対する」「人種等を理由とする」という二つの形式的な条件によって絞り込んでいること、です。

次に「第2 そもそも本当に必要なのか?」の各論点について。
1 警察は対応できないのか
一般論として警察の「怠慢」によって司法による救済がうまく機能しないケースがあること、については別段否定しません。しかしすべてを警察の怠慢に帰することもまたできないはずです。警察の処理能力の問題をとりあえず脇においたとしても、「警察に介入する権限があるかどうか」の問題と、「警察が介入することが当事者にとってベストかどうか」の問題とは区別されるべきです。家庭内暴力、家庭内での虐待の場合警察が介入することによって家族関係の再構築が著しく困難になることが容易に予想できます。したがって、警察以外の窓口が存在することには十分な意味があります。また、「差別的言動」のケースについては警察が積極的に関与すればするほど、与太者さんが危惧されている「言論弾圧」の恐れが現実的になってしまいます。これまた、司法以外の窓口があることには意味があります。
例えば政治家が自分に都合の悪い記事に対して民事訴訟を起こす(ないし刑事告発する)ケースは現にあり、場合によっては実質的に「言論弾圧」としての意味をもつわけです。しかし人権委員会という窓口ができた場合、安易な訴訟や刑事告発への社会的批判が高まる可能性がある(より穏当な手段を選ばなかった、として)わけで、だとすれば「言論弾圧」を抑止する効果すら期待できるわけです。

3 特別法との比較
これについては人権擁護法に「屋上屋を架す」側面があるのは確かです。児童虐待防止法について詳細な検討もまだ行っていないので、現時点では「窓口の一本化」というメリットくらいしかあげることができません。ただ、この論点それ自体は人権擁護法が「廃案」にされねばならないとする強い主張の論拠とはならないでしょう。

4 司法へのアクセスについて?法定訴訟担当は可能か
現在の人権擁護委員は公務員ではありませんから、法定訴訟担当を認めるには大幅な法改正が必要になるのではないでしょうか? そしてその結果

因みに人権擁護法案第65条には、「人権委員会は、第四十三条に規定する行為をした者に対し、前条第一項の規定による勧告をしたにもかかわらず、その者がこれに従わない場合において、当該不当な差別的取扱いを防止するため必要があると認めるときは、その者に対し、当該行為をやめるべきこと又は当該行為若しくはこれと同様の行為を将来行わないことを請求する訴訟を提起することができる」という規定がありますが、これを大幅に 拡充したものという趣旨です。

ということになるのだとすれば、人権擁護法を成立させるのとどれほどの違いがあるのか…と疑問に思います。

5 合憲とされた行為まで禁じようとしていること
これについては若隠居さんのところでも議論がなされているようですが、一応私からもコメントしておきます。
まず問題の最高裁判決で「合憲」としているのは「直接私人相互間の関係に適用されるものではない」という論理によるものですから、思想信条によって雇い入れを拒否することが「合憲とされた」とするのは語弊があるのではないでしょうか。また同判決は

二、企業者が特定の思想、信条を有する労働者をそのゆえをもつて雇い入れることを拒んでも、それを当然に違法とすることはできない。

五、企業者が、大学卒業者を管理職要員として新規採用するにあたり、採否決定の当初においてはその者の管理職要員としての適格性の判定資料を十分に蒐集することができないところがら、後日における調査や観察に基づく最終的決定を留保する趣旨で試用期間を設け、企業者において右期間中に当該労働者が管理職要員として不適格であると認めたときは解約できる旨の特約上の解約権を留保したときは、その行使は、右解約権留保の趣旨、目的に照らして、客観的に合理的な理由が存し社会通念上相当として是認されうる場合にのみ許されるものと解すべきである。

とも述べており(下線は引用者)、思想信条による雇い入れの拒否を無条件に合法としたものでもありません。
しかもこの判決は「雇い入れの段階」と「雇い入れ後の段階」とを区別し、労働基準法第3条が後者については(前者に比べて)企業の自由を制約していることを指摘したうえで、問題の事例が「雇い入れ後の解雇」であるとしています。その結果

前記のように法が企業者の雇傭の自由について雇入れの段階と雇入れ後の段階とで区別を設けている趣旨にかんがみ、また、雇傭契約の締結に際しては企業者が一般的には個々の労働者に対して社会的に優越した地位にあることを考え、かつまた、本採用後の雇傭関係におけるよりも弱い地位であるにせよ、いつたん特定企業との間に一定の試用期間を付した雇傭関係に入つた者は、本採用、すなわち当該企業との雇傭関係の継続についての期待の下に、他企業への就職の機会と可能性を放棄したものであることに思いを致すときは、前記留保解約権の行使は、上述した解約権留保の趣旨、目的に照らして、客観的に合理的な理由が存し社会通念上相当として是認されうる場合にのみ許されるものと解するのが相当である。

と認定しているのです。そして原審では「客観的に合理的な理由が」存するかどうかの審理が行われていなかったとして「原審に差し戻すのが相当」と結論しています。
要するにこの判決は、企業が思想による差別的な取り扱いをすることを“企業に当然認められるべき自由”だとしているわけではありません。他方、人権擁護法も「人種等」による「不当な差別的」取り扱いは禁じていますが、思想によるあらゆる区別を禁止しているわけではありません。したがって、この判決が企業側に認めた「自由」が人権擁護法によって禁じられると直ちに結論することはできないはずです。

Posted: 土 - 5 月 14, 2005 at 03:05 午前          

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