山田昌弘、『希望格差社会』、筑摩書房
パラサイト・シングル、ひきこもり、フリーター、
そして使い捨て労働者……。
経済格差だけが問題じゃない!
やる気を失った敗者の群れが
さらなる二極化を加速する!
(帯の宣伝文より)
テーマとしては前回このカテゴリーでとりあげた教育問題と関わるものである。宮台・寺脇コンビにせよ、苅谷剛彦にせよ、本書の著者山田昌弘にせよ、現在起こりつつある社会の変化を逆行させるという選択肢が非現実的であること、従来の社会にもいま日本が向おうとしている社会にもそれぞれ長所と短所があり「どちらがよい」という単純な判断は不毛であること、しかし不可避な変化に対応するために社会や人々は手を打たねばならないこと…という点では見解の相違はないように思われる。前回書いたこととも重なるが、この問題に関する楽観論と悲観論を分ける要因の一つは、グローバル化・リスク社会化に対応すべく日本社会がとりつつある対策がなんとか間に合いそうだと考えるのか、それとも対策が実を結ぶまでに深刻な状況に陥る人々(主として若者)が相当数でてしまうと考えるのか、という予測の違いであろう。
本書も苅谷剛彦などと同様、「やる気」が構造的にスポイルされてしまう階層の誕生(希望格差社会)を危惧する問題意識から出発している。印象深いのは101ページに見られる次のような表現。
若者に関しては、不安定な職を「選ばざるを得ない」状況に追い込まれている。若者の意識変化は、そのような状況に適応した結果生じたのであって、その逆ではないことを強調しておきたい。若者の心理的安定、そして、自己正当化のためには、「好きでやっている」という言い訳が必要となるのである。
「パラサイト・シングル」という概念を広め、ここ数年の「若者バッシング」の原型を(部分的には本人の意図に反して)つくった論者の文章だということを念頭において読むと、非常に印象的である。著者の研究の進展によるものか、若者をめぐる状況の一層の悪化によるものかは別として、かつてに比べて若者を責めるトーンが非常に希薄になっているのを感じる。
来年の1月1日から改正刑法が施行されることになったが、その改正の趣旨はひとことで言えば「厳罰化」である。凶悪犯罪が増えているかどうかについてはさまざまな議論があるにせよ、少なくとも「治安の悪化」の度合いに比べて不釣り合いに大きい「厳罰化を求める声」に答えたかたちの法改正であるが、何人かの社会学者が論じているようにこれはグローバル化・リスク社会化がもたらすマッチ・ポンプである。若年層の雇用が不安定化し、ライフコースが不透明化するため将来への展望が持ちにくくなれば、いまの社会のなかで真っ当に暮らしてゆく動機を持たない若者が増えることになる。そうして治安が悪化すれば厳罰化という「鞭」で応えるというわけだ。マッチ・ポンプの「ポンプ」として「厳罰化」がきちんと機能するのであれば、そうした社会をよいとするかはどうかは別としてとりあえず合理性はあることになる。しかしもはや社会のなかで将来への希望を持てない人間(娑婆に未練のない人間)にとっては「厳罰」はさしたる抑止力にはならず、服役期間が長引けば更正(社会への再統合)は一層困難になってしまう。下手をすればリスク社会化のネガティヴ・スパイラルになりかねない。
なにより問題なのは、本書が強調しているように、こうした問題に個人レベルでのみ対応することを要求してもどだい無理、という点である。著者は「機会だけ与えて結果は知りませんよ」というシステムが若者から「希望」を奪っている(そして同時に、健全なあきらめをも不可能にしている)と主張する。具体的には教育システムを通じて段階的に選別を行い、若者を各種の職場へと送り出してゆく日本的な「パイプライン」モデルの「漏れ」として指摘されているものがそうである。かつての日本の教育システムは、ヨーロッパとは違って徐々に選別を行うことで「断念」を容易にするとともに、教育システムのなかでどの程度の成果を上げればどの程度の生活水準が達成できるかという見通しを若者に与えていたとされる。このような状況では、教師の教え方が上手かろうが下手だろうが学生は学ぼうとする動機を持つことができる。現在、小学校から大学まで教授法への関心はかつてよりずっと高まっているにも関わらず学習意欲が減退しているのは、「パイプライン」の漏れに若者が気づいているからだ、ということになる。
著者も指摘しているように、日本では若者の雇用環境の悪化が社会問題として認知されるのが欧米よりも遥かに遅れてしまった。いまでもなお「ニート」や「ひきこもり」をめぐる言説は個人や家庭に帰責するタイプのものが多く、問題の深刻さがどの程度社会的に共有されているのか、心細い限りである。
さて上で「あきらめ」「断念」というプロセスに言及したので、前回とりあげた「丸激」についてもうひとこと。番組中でもやはり「断念」の必要性と(現在の社会におけるその)困難さが話題になっていたのだが、その中で気になったのは次のような言い回しである。「誰でもイチローになれるわけじゃなく、そのことについてはみんなきちんと断念できるのに、なぜ勉強(中上層級ホワイトカラー)への途については断念することをよしとしないのか」というかたちで苅谷・斎藤・佐藤的な左からの格差固定化論が批判されていた。山田昌弘の議論とも重なる論点で、それなりに一理はある。しかしいくら譬えだとしても「イチロー」をひきあいに出すのは適切ではなかろう。そもそもプロ野球選手になれるのは一学年のうちで(男子に限ったとして少し前なら100万人、最近ならば80万人弱)のうちほんの70人ばかり、という計算になる。そもそも社会構造には大きな影響を与えない、誤差のような数字である。これに対して上層ホワイトカラーはといえば、国家公務員上級試験に合格し採用された人数だけでもその10倍近くにはなる。これに地方公務員の上級や一部上場企業の幹部候補生、司法試験合格者や医師免許取得者を加えれば(狭き門とはいえ)相当な数になる。しかもプロ野球選手が一般のファンにとっては「遠い」存在であるのに対し、上層ホワイトカラーは職場で(上司や同僚、ないし取引先というかたちで)日常的に接する存在であり、立場の違いを意識せずにはいられまい。
もう一つ。小学校の時点で早々に野球の才能に見切りをつけた人間にとっては「イチローになる」ことを断念するのも容易である。しかし高校・大学・社会人まで野球を続け、プロになる夢を持ちながら結局かなわなかった人間にとっては、「イチロー」になることを断念するのはずっとつらいプロセスであるはずだ。多くの人間が「勉強を通じた出世」を断念する決断を迫られるのは一般にプロ野球選手になることを断念するよりもずっと遅い。いくらなんでも「イチロー」を断念するのと同じように「一流企業の正社員」を断念せよとは言えないはずである。
Posted: 月 - 12 月 13, 2004 at 10:17 午後
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