映画ジャンル論と『ブレードランナー』
旧稿を掘り出してきて改訂。
加藤幹郎の提唱する「ジャンル批評」における「ジャンル」ないし「ジャンル映画」は、厳密に定義された概念である。著者によればジャンル映画とは「スタジオ・システム下で制作配給公開されたフィルム」、かつてハリウッドが映画の製作のみならず、配給から興行までを支配していた時代に製作された映画を指す。「ジャンル」とは映画をよりよく売るために貼られるラベルであり、製作・配給・公開の各段階で流通する言説(典型的にはポスターのうたい文句)の中で使用されるジャンル名のことである。そしてジャンル批評とは、映画を閉じられた一本の作品として享受するのではなく、「イデオロギー装置」、「複数の共同体を流通する文化的教育装置」としての映画を批評することとされる。あるいは「これまでの作家主義批評がなおざりにしてきたものを映画史と映画理論の内側に回復すること、そしてそれをもう一度、もし可能ならば歴史的、経済的、イデオロギー的な社会の枠組みにかえすことによって映画なるものを逆照射すること」がねらいであるとされている。このような方法は社会史の技法に通じるところがあるように思われる(また、ブルデューの芸術論との対比も興味のあるところ)。実際、本書はしばしば映画の周辺で起こる社会的出来事に言及する。ギャング映画、ニューシネマ、ポルノグラフィーは「ヘイズ・コード」と呼ばれるハリウッドの自主規制(の制定,廃棄)と深く関わっており、C.イーストウッドの『許されざる者』はPC(Political
Correctness)および銃規制問題との関連で論じられる。『スターウォーズ』『インディー・ジョーンズ』各3部作というスワッシュバックラー映画の時ならぬ復活は、かつてこのジャンルの俳優であったレーガンの超タカ派政権と連動するものとして考察される…。ちなみに、本書で言及されている「ジャンル」は具体的には次の通りである。 フィルム・ノワール(都会の憂鬱) 道化喜劇映画(災厄を克服する超人たち) スワッシュバックラー(荒唐無稽な政治アクション) ヴェトナム戦争映画(現代史と映画史の課題) ファミリー・メロドラマ(理想が現実を凌駕するとき) スクリューボール・コメディ(常軌を逸した女たち) 恐怖映画とポルノグラフィ(おぞましさのスペクタクル) ギャング映画(アメリカン・ドリームの隘路) ミュージカル映画(地上の楽園) 西部劇(荒野と文明の緩衝地帯)ただしこれらはカテゴリカルな分類ではなく、特に「フィルム・ノワール」はSFから西部劇までにわたる横断的なスタイルとされている。それぞれのジャンルは特定的なトポスと特定的なアイコンを持つ。例えばフィルム・ノワールにとっての都市、西部劇にとっての荒野と文明の境界などが前者の例である。また西部劇にとってのタンブルウィードやロッキングチェアー、ベトナム戦争映画にとってのヘリコプターなどが後者の例である(ちなみにフィルム・ノワールのイコノグラフィーは,都市の夜景をのぞけばほとんどファミリー・メロドラマのそれと重なっており、それゆえにフィルム・ノワールはジャンル横断的なスタイル、「光と闇が交錯する独特なスタイルとペシミズムとによって規定される一連の映画群」と言われることになる)。「フィルム・ノワール」としての『ブレードランナー』以下は『映画ジャンル論』でのフィルム・ノワールを扱った章に付された長い註で展開されるブレラン論についての要約とコメントである。著者によればフィルム・ノワールは次の4つの水源をもつとされる。 ドイツ表現主義 戦後イタリアのネオレアリズモ運動 パルプ・マガジン ギャング映画・恐怖映画そして『ブレードランナー』はドイツ表現主義の古典である『メトロポリス』にその主題と形式を依拠しているのであり、SFであるよりもまずフィルム・ノワールであるとされる。この映画をフィルム・ノワールとして捉えることは何をもたらすのか? 『ブレードランナー』の評価をめぐる大きな問題の一つに、「ディレクターズ・カット」版(以下DC)といわれる別バージョンの存在がある(市販ビデオでは劇場版とDCの間に、劇場版にいくつかのシーンが付け加えられた「完全版」がある)。マニア的観点、作家主義的批評の観点からは当然のようにDC版の方が高く評価されているのであるが、著者は敢然とこうした風潮に異を唱える。二つのバージョンの最大の違いは 1)主人公デッカード=ハリスン・フォードのナレーションがDC版では全面的にカットされている。 2)ラストの場面で,デッカードとレイチェルがスピナーに載り、緑の大地の上を逃走するシーンがDC版ではカットされているの2点である。私はDC版を劇場で観たのだが、その当時のパンフレット(これがDC版を持ち上げるのは当然であろうが)では、ナレーションのカットが映画の緊張感を高め、ラストシーンのカットが映画から甘さを拭い去った、といった評価が下されていたと記憶している。これに対して著者は1)ナレーションのカット、特に冒頭部分のナレーションのカットをリドリー・スコットの勇み足であると断じている。なぜなら、フィルム・ノワールにおいては「主人公の暗く晴れない心情が主人公のヴォイスオーヴァーによって直接観客に共有されること」が要請されるからである。スコットがフィルム・ノワールを撮ろうとした以上、冒頭のナレーション(ヴォイスオーヴァー)を残すことがジャンルの規則にかなったことであった、というのである。さて、著者は2)の異同については論及していないが、以上の議論を敷延すると2)についてはどう判断すべきか…。当然,こちらについてはカットが妥当であったということになる。なぜならフィルム・ノワールは孤独と裏切りの物語であり(この点で,アメリカンドリームについての物語であるギャング映画とは明確に区別される、とのこと)、それゆえハッピーエンドはありえないからである。ところが面白い(?)ことに、『『ブレードランナー』論』序説においては、著者は明確にオリジナルのエンディングを支持している。そのロジックについてはまた機会があれば論じることにしたい。今回は1)の異同、すなわちヴォイスオーヴァーのカットについての議論に限定する。まず派生的な論点ではあるが、ヴォイスオーヴァーを用いるか否かという形式上の問題と、ヴォイスオーヴァーにおいてなにが語られるかという内容的な問題とを区別せねばならない。ヴォイスオーヴァーがあるバージョンをより高く評価する視点から考えた場合にも、デッカードの独白の「内容」はいくつかの大きな難点をはらんでいる。一番問題なのは、ゾラを射殺した直後にかぶさるヴォイス・オーヴァーである。実はこの映画に直接登場する4体のレプリカントのうち、デッカードによって処分=射殺されるのは女性型の2体に過ぎない(男性型の1体はレイチェルによって射殺され、もう1体=ロイは寿命によって機能を停止する)。これは、観客の感情移入の対象である主人公は女性(と子ども)を殺してはならない、という娯楽映画の根本原則を公然と踏みにじる、極めてスキャンダラスな設定である。しかもゾラの死はスローモーションによって引き延ばされ、プリスの死に際しては断末魔の叫びとあがきが強調されており、このスキャンダル性は見逃しようにも見逃しようがないものとなっている。にもかかわらず、ゾラの処分のあとでデッカードは「いくらレプリカントの処分とはいえ、女(のかたちをしたレプリカント)を撃つのはいい気分じゃない」という趣旨の独白を行う。これを聴いた観客は撃たれたのがレプリカントであることを思い出し、一抹のひっかかりを残しつつも基本的には安心させられることになってしまう。女性型レプリカントの射殺シーンは、本来「デッカードは我々が感情移入すべき対象なのか?」という根源的な問いを喚起するものであったはずなのに、その効果が半減させられてしまっているのである。またエンディングのヴォイスオーヴァーもなかなか問題含みである。なにしろ物語(の終わり方)の解釈を180度変えてしまう結果になっているのである。オリジナルのヴォイスオーヴァーでは、レイチェルが特殊な「製品」であって、4年という寿命を設定していないことが明かされる。DC版にはそのような説明がないから、観客は「あとわずかの命しか残されていないレイチェルと駆け落ちするデッカード」を目撃することになる。オリジナル版の結末が、メロドラマ(フィルム・ノワールと多くのイコンを共有しているとされる)へと観客を誘導していることは明白であろう。しかし人為的に設定された短い寿命をもたないレプリカントは、映画内の設定ではもはや人間とまったく区別されない存在である。このようなオチをつけて二人の「恋愛」を成就させるというのは、明らかにこの映画の中心的な主題への裏切りと言うべきであろう。さて、今度は形式上の問題に移ることにしよう。リドリー・スコットといえば「薄暗い画面にスモークをガンガン炊くか雨を降らせる」のがトレードマーク、『エイリアン』以来、映像的には「フィルム・ノワール」のイコノグラフィーに満ちているわけである。他方、極めて興味深いことに、私が観た限りでスコットは自らの映画でヴォイス・オーヴァーを用いていない。スコットがフィルム・ノワールとヴォイス・オーヴァーとの結びつきを知らないとは思えないので、これは極めて意識的な選択ということになる。ではスコットは(より適切な言い方をするなら「ディレクターズ・カット版」というバージョンは)フィルム・ノワールの規則を破ることにより何を達成したのであろうか。リドリー・スコットの作品群を特徴づけるもう一つのしるしは、異人=エイリアンの存在である。『エイリアン』『ブレードランナー』はいうに及ばず、『1492』(アメリカ先住民)、『ブラック・レイン』(またしても日本人)、『ブラックホーク・ダウン』(ソマリア人)、『グラディエーター』(非ローマ人がいっぱい)などでも同様である。これらの映画において、制作者がさしあたり標準的な観客として想定する英語圏の観客は、自分には理解できない言語を話す(ないしそもそも言語を話さない)登場人物と出会うことになる(こうした「他者」へのこだわりをオリエンタリズムとして批判的に論じることもできるが、それはここでは棚上げしておこう)。このような「他者」との出会いを経験させる映画において、どこからともなくまるでテレパシーのように観客の心に届く主人公の「内面」なるものは、素朴に想定することができないものとなる。まして表面的には主人公であるデッカードは、「果たして彼は感情移入の対象となる内面をもつ存在なのだろうか?」という懐疑に晒されねばならない存在でもあるのだ。このように考えるなら、フィルム・ノワールの形式からの逸脱(としてのヴォイス・オーヴァーの削除)をより積極的に評価することも可能となるはずである。------------------- 以下、コメント欄より転載 -------------------Thanks
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このブログの記事全体をきちんと読めば、これが『『ブレードランナー』論序説』を読んで書いたものだという結論は絶対に出てこない。読み込み不足を反省すべきだ。
Apeman | 10.24.04 - 12:32 am | #
加藤幹郎「『ブレードランナー』論』序説」全体をきちんと読めば、おまえのような結論は絶対に出てこない。読み込み不足を反省すべきだ。
horiuchi junnya | Email
| 10.07.04 - 8:47 pm | #
Posted: 日 - 10 月 3, 2004 at 10:44 午後
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