『子どもが減ってなにが悪いか!』ほか3冊


岩木秀夫、『ゆとり教育から個性浪費者会へ』、ちくま新書
赤川学、『子どもが減って何が悪いか!』、ちくま新書
『角栄失脚 歪められた真実』、光文社ペーパーバック

ちくま新書の2冊は、このところ粗製濫造の気がある新書としてはかなり読み応えがあった。『ゆとり教育から…』は過去20年ばかりの教育改革を同時代の歴史という文脈のなかで解き明かそうとしたもの。著者は教育改革論議における主要な立場を「近代能力主義派」「脱近代カリキュラム派」「脱近代能力主義派」と分類する。それぞれ順に従来の系統的カリキュラムを維持すべし(元に戻すべし)とする立場、成熟社会にふさわしい「生きる力」を重視する立場、そしてグローバリゼーションへの対応を目指す立場、と言うことができる。これまでのいわゆる「ゆとり改革」は第2の立場に属するわけであるが、特に興味深いのは次の点である。「ゆとり改革」は中曽根内閣時代の臨教審において定められた方針に基づいているわけであるが、同じ新自由主義的なイデオロギーをもつレーガン、サッチャー政権の教育改革は180度違った方向性をもっていた、という指摘である。これには80年代の経済状況が関係している。レーガン、サッチャー政権にとっては国内産業の競争力を回復することが課題であった。それゆえ学力水準の向上を目標とし、そのための手段として教育の自由化を進め、学校間の競争を促進した。上の3番目の立場はこの流れにつながっている。これに対して80年代の日本の課題は「内需拡大」による貿易黒字の削減であった。それゆえ、言わば「成熟社会における良き消費者」を育てるための教育として「ゆとり教育」への転換が目指されることになった、というのである。同じように新自由主義的な方向へと社会が変化していながら、なぜ日本の教育改革だけが別の路線を歩むことになったのか、についての説得力のある説明である。そして日本経済の長期にわたる停滞をうけ、「周回おくれ」で「脱近代能力主義」的な改革を求める声(「教育改革国民会議」に代表される)が高まってきた、というのが現在の状況である。
また、脱近代能力主義的教育観と社会の心理学化、マクドナルド化、リスク社会等との関連に関する考察もなかなか興味深い(1947年生まれの著者による本のなかに「デ・ジ・キャラット」といった単語を見つけるとちょっとびっくりする)。現代人は労働および消費において互いの「人格」ではなく「生理・心理的個性」を重視するよう求められ、その結果「解離化・多重人格化」の傾向をもつようになる、つまり「お互いの行動と感情の一貫性」「自我同一的な人格のありよう」に対してルーズになっている、というのである。そして教育もまた、こうした状況へと若者を適応させるべく変えられようとしている…。
ある種の「解離」を要求されるのは一部の「シンボリック・アナリスト」の下で単純労働に従事する労働者だけでなく、「勝ち組」であるはずの企業エグゼクティヴもまた同じような状況におかれているのではないか…と示唆するのが現在半分ほどまで読んだ『ザ・コーポレーション』である。一人の人間としては必ずしも悪人とは限らない企業幹部が、もし一つの人格として「診断」するならばサイコパスも同然の企業を率いている。企業にとっては他人のことなど気にかけないことこそが本分であり、「規制緩和」は企業のそうした病的な行動を野放しにしてしまっている、というのである。

『子どもが減って何が悪いか!』はタイトルが示すように、少子化「対策」で汲々とするのは止め、少子化を前提とした社会制度を設計してゆくべき、という問題意識で書かれた「少子化」論。前半の目玉は、過去の社会調査の再分析を通じて、「男女共同参画社会」は少子化対策として有効でない、と主張する点。その議論の一部に賛同できないところもあるが、少なくとも過去の少子化対策がまったく効果を持たなかったという事実をふまえるなら、この批判には聞くべきものがあろう。ただ、筆者も誤解を避けるために繰り返し強調しているのだが、「少子化対策にならないから男女共同参画は不要」というのが趣旨ではなく、「少子化対策になろうがなるまいが男女共同参画は推進されるべき」「ライフスタイルの違いに中立的な制度を設計すべし」「少子化を前提として公正な負担を考えるべき」というのが筆者の主張である。最後の点については、はっきりと述べてはいないものの、どうやら「時計の針を何十年も戻す以外に少子化を止めるすべはない」と考えていることが前提になっているようだ。

そしてお待ちかね(笑)の『角栄失脚 歪められた真実』。この場合の「歪められた真実」とは“アメリカ(CIA)による陰謀が隠蔽されている”という意味ではなく、“誤った陰謀論が流布して真実を歪めている”の意味。ロッキード事件陰謀論者の方々、残念でした! タイトルをみて読んだらさぞがっかりしたことだろう。もちろん、著者が参照した資料をチェックし、その資料の信憑性について裏をとり、筆者が行ったインタビューの裏をとり…といった作業をしない限り本書の結論を鵜呑みにはできない。とはいえ、本書の記述に破綻はないし、知られている事実との矛盾もない。なにより、田原総一郎が発端となった「陰謀論」がそもそも誤解や憶測、伝聞に基づくものでしかないという批判は極めて説得的である。立花隆が言及していたチャーチ委員会への取材に基づく雑誌記事とは、この著者が書いたものだったのかもしれない(未確認)。
ま、少なくとも、陰謀論を唱える連中は以後本書を乗り越えたうえでなければ主張を続けられないことは明白である。せいぜいがんばってもらいたい。

Posted: 水 - 12 月 22, 2004 at 11:22 午後          

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