今後の課題(19日追記)
ある本を読み終わらないうちに別の本が気になって読み始め、どちらも読み終わらないうちにまた別の本を買って…と、読みかけ&積ん読の本が溜まっていくのは今に始まったことではないのだが、ブログを始めてからプレッシャーが強くなってしまった。ブログではとりあげる予定のない本(フィクションのほとんどと仕事関係の本)は別としても、ブログで中途半端にとりあげたまま未完の計画がいくつもある始末。そのなかでも、夏に手をつけてそれ以降進捗していない日露戦争の勉強はなるべく早く再開しなくては。というのも、id:bluefox014
さんのロケンロール愛好家同士(笑)の議論(http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20051114/p1)10月30日のコメント欄の続き…論点整理(http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20051104/p1)を中心とするエントリを拝見したりコメントさせていただいたりしているうちに、やはり「十五年戦争は仕方なかった(やむを得なかった)」という認識の根っこは日露戦争(および日清戦争)についての認識にあることを再確認したからだ。「ロシアの脅威」が具体的な検証を欠いたまま日露戦争を正当化する根拠として提示され、「ロシア」が「アメリカ」や「ソ連」や「ABCD包囲網」に置換されることによってその後の一連の戦争も正当化されてゆく…。彼我にあれだけの犠牲者を出した戦争について「仕方がなかったのだ」と考えることそれ自体の問題性(→『アウシュヴィッツの<回教徒>』)をひとまずおくにしても、「仕方がなかった」の背後にあってしかるべき痛切さが、少なくともネット上に見られる「大日本帝国の戦争」肯定論にはまったく感じられない。本来であれば、・天皇制の存続を願うからこそ、昭和天皇は退位すべきだったと考える・「大東亜共栄圏」の理念を信じるからこそ、その理念から逸脱した虐殺・略奪を批判する・「大東亜戦争」は聖戦だと信じるからこそ、戦略を欠き敗戦に導いた指導者を弾劾する・日本という国家の道義性に誇りを持つからこそ捕虜の虐待・殺害の実態を自ら究明する・同胞を愛するからこそ、勝ち目のない戦争を始め、戦略的・戦術的に無意味な戦病死者を出した軍部を批判する…などなどは、「保守」ないし「右派」の自意識を持つ人間にとってこそ十分採用可能な見地であるはずだし、少数とはいえ実際にそう考える保守・右派だっているわけだ。こうした“もち得たはずのパースペクティヴ”から多くの右派を遠ざけているのは「仕方がなかった」という発想なのではないのだろうか。とはいえ、その「仕方がなかった」に説得的に(つまり相手の土俵にのったうえで)反論するためにはこちらにも相当の準備がいるだろう…ということで前途遼遠。 __________________以下、19日の追記。「野良猫」さんから長いコメントを頂戴したので、コメントシステムのバグを避けるためこちらでお返事をば。野良猫さん、こんにちはご投稿の長さについてはまったく気にしてはおりませんが、あまり長いとバグる場合がありますので、そのようなおりは併設の掲示板をご利用いただければ、と思います。さて、「たまたま靖国神社の話題を書いただけの、普通の方のブログは見逃してあげるべきでしょう」とのことですが、私も別段現代史を専門にしているとか趣味にしているといったことのない「普通の」人間ですから。さらに言えば、あそこでの私のコメントは野良猫さんのコメントを受けて行なわれていることも、ご理解いただけることと思います。>政策や作戦のミスに関する分析は大事なことです。本当にこのようにお考えなら、「運命」などと言うことばをなぜお使いになるんでしょうか(ユリアさんのブログでのコメント欄より)。「分析」の結果「運命的」だと結論を出されたわけですか? だとすれば、日本の先人たちの当事者能力を過小評価した、「自虐」的な歴史観だと私は思うのですが。>分析は自分の歴史観や願望を出来るだけ抑えてやらないとまずいですね。おっしゃる通りですね。だからこそ私は>「20万人しかいないところで30万人殺すことはできない」のが左右に関係なく認めねばならない当たり前のことであるのと同じように、「20万人しかいなかったことが確かでないのなら、30万人殺されたという主張もデタラメとは言えない」こともまた、左右に関係なく認められるべき、当たり前のことでしょう。とコメントしたのです。「20万」というのがどの地理的範囲の、どの時期の推定人口なのかをはっきりさせず、その人口推定の妥当性についても吟味せず、また人口に関しては民間人のみの数字を上げながら犠牲者数については軍人を含む数字を挙げてあたかも「肯定派」の主張が荒唐無稽であるかのように見せかける…こういう手法こそ「自分の歴史観や願望」にとらわれているのではないか、というのが私の問題提起ですよ。>(…)「コリッツ(朝鮮)
」という名前の軍艦を配備していたロシア。(…)これがなにごとかを証明しているのであれば、「日本」という名の軍艦をロシアが配備していなかったこともまた注目されてしかるべきでしょうね。それはさておき、ここでの野良猫さんの文章こそ、私がこのエントリで「痛切さ」に欠けると批判したタイプの文章の典型になっています。>さて、他国からの批判が正確な内容ならば耳を傾けるべきですが、現在の中国・朝鮮は対日交渉を有利に進めるためのカードや、国内をまとめる道具に使っているに過ぎません。他国の批判が「正確」かどうかと、その国がその批判を「カード」や「道具」として利用しているかどうかは独立の問題です。妙なすり替えは慎まれた方がよいかと。中韓両国はA級戦犯が靖国に合祀されていることを「カード」として利用していますが、A級戦犯が合祀されているのは事実ですよね? さらにいえば、いわゆる「マボロシ」派や「20万人しかいなかったところで30万人殺せるはずがない」などという詭弁を弄する人々の存在こそが、南京事件を中国が「カード」として用いることを容易にしている(カードとしての価値を高めている)ということは明らかです。>むしろ、かの国の主張に賛同する方々こそが「もっと厳密に調査された確かな内容で主張してほしい」と要望を出すべきでしょう。「かの国の主張に賛同」というのがいったいなにを意味しているのかよくわかりませんが、犠牲者数に関して中国側の主張をそのまま受け入れている現代史家は(すくなくとも影響力を持つ人々に限れば)いませんよね? 他方で、正確な数はともかく無視できない規模の虐殺・略奪があったことを認めれば「かの国の主張に賛同」したことになるのなら、それはほとんどの現代史家のコンセンサスであるだけでなく日本政府の公式見解でもありますよね? 日本政府が野良猫さんのおっしゃるような「要望」を正面切って出せないのはなぜだとお考えですか?>しかし、中国は35
万人虐殺などと主張している。これはおかしいので実態に合った数字に直すか、この数字にした理由を説明して欲しいご存知のうえでおっしゃっているのでしょうが、別に中国側はなんの「理由」説明もなく犠牲者数の主張を行なっているわけではありませんね。むろん、その「理由」の妥当性をどう評価するかは別問題ですが。ちなみに私は、事件直後に日本政府がきちんとした調査をしておかなかったこと(当時の法的・道義的水準に照らしても十分そうする理由はあった)を残念に思っています。>「よくわかんないけどあった」と述べるだけでは、自らの言葉に責任がとれないからです。これは一体誰に対しておっしゃっているのでしょうか? 私は「よくわかんないけどあった」などと主張してはいないのですが??>また「殺すために動員した」と「動員された側」という区分の意味がよくわかりません。別に中国人を皆殺しにするために日本軍が派遣された訳ではありませんから誰が「中国人を皆殺しにするために日本軍は派遣された」と主張したのでしょうか? 子ども騙しのすり替えはやめた方がよろしいのでは。だいたい、「動員した」と「動員された」の区分(がわからない、というはなし)とは関係ないことではありませんか。動員する/されるの違いはお分かりですよね、もちろん?>相変わらず自分の側から条約を破り続けたかの国の政府。殺害され続ける在外邦人。そういった歴史的経緯を抜きにして語ろうとすると、偏ったものになる。ここで「歴史的経緯をぬきにして」語ろうとしているのはむしろ野良猫さんの方だと思うのですが? 例えば「殺害され続け」た在中邦人はいったいなぜ・どのような資格で中国に行きそこでなにをしていたのか、「条約」とはどのような経緯で結ばれたどのような内容のものだったのか、などなど。>支那事変はあくまで支那事変であって、中国全土を支配して領土化するようなプランがあった訳でもないだったらどうだというのですか? 「中国全土を支配して領土化するようなプラン」がない以上南京事件もなかった、などとおっしゃってるわけではありませんよね?>戦犯の裁判にしても、(…)これ以降の部分は、わざわざご指摘いただかなくても(私なりのソースで)知っていますし、そもそもこのエントリでの私の主張やユリアさんのブログでの私のコメントとはなんの関係もありませんね。>戦争責任・靖国神社の話題などで感じるのは、青狐さんのような方々は当時の日本人(多数派)
の歴史感覚とは断絶しているというところです。>>前の世代から自然に受け継がれてきた「歴史観」か、(後略)「歴史観」の形成・継承に関してあまりに素朴な考え方をしておられるので、正直にいってびっくりしました! 歴史観は決して「自然」に伝承されるものではありませんが、それを差し置くとしてもあなたの主張は学問としての歴史学の否定に行き着きますよ。だいたい、多数派の「感覚」とは断絶しているからといって、それがどうだとおっしゃるのでしょうか?
Posted: 火 - 11月 15, 2005 at 10:34 午後
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