先週の「マル激トーク・オン・デマンド」、教育関連ニュース
12月3日更新、ゲスト:寺脇研(文化庁文化部長)
大学生の国語力低下?
15歳の学力国際比較(OECD諸国)で日本のランク低下
寺脇研は文部省時代から、宮台真司の“盟友”なのでよく言えば息のあった、悪く言えば馴れあいムード全開の展開。お互いに相手の主張を知り尽くしているので論点が拡散することがなく、二人の主張をじっくり聞くという意味では便利。他方、「学生時代は先輩の影響でグラムシの文化的ヘゲモニー論を…」と昔自慢をしている宮台真司の横で寺脇研がニコニコ(ニヤニヤ?)笑っている…というのは笑える絵ではあるが、ちょっと楽屋落ちっぽい。また寺脇研が河合隼雄(文化庁長官)をもちあげるのはまあわかるにしても、内心河合隼雄のことなどバカにしているはずの宮台真司はそれを黙認。
番組では2000年にOECD諸国で行われた15歳の学力調査をひきあいに出し、日本が数学リテラシーで1位、科学リテラシーで2位、読解力で8位につけていることを紹介していたが、皮肉なことに12月8日には新聞各紙が2004年の調査でそれぞれ順に6位、2位、14位となったことを報道した。読解力の順位の低さが際立つわけだが、これと関連するニュースが「大学生の日本語力低下」というものである。調査によれば「中学生レベルの日本語力」しかない大学生が国立大で6%、4年生私大で20%、私立短大で35%。「外国人留学生より劣る」結果と報道されている。
大学生の日本語力を心配するより、新聞紙面におかしな文章が目立つようになったことを心配したらどうか…というのはおくとして、後者における「外国人留学生より…」云々についてはかなり割り引いて考えられねばならない。テスト内容については「憂える」「懐柔する」の意味を問うものなどが紹介されていたが、どちらも若者の日常的なボキャブラリーには含まれていそうにないものである。倍近い年齢の私なんぞでも「憂」には「憂ふ(う)」と送り仮名をしてしまいたくなるほど、名詞としての「憂い」はともかく動詞として「憂える」を使うことはまずない。他方、外国人留学生は規範文法によって日本語を学んでいるわけであり、非日常的な語彙や文法規則については外国語として学習した人間の方がよく知っているというのはしばしばあることである。かつて読解中心の日本の英語教育を揶揄して「ネイティヴ・スピーカーでも滅多に読まないシェークスピアを読ませている」と言われることがあったのを想起しよう。アメリカの大学生が読まない(読めない)ようなレベルの本を英語で読む(読める)日本の大学生も存在しているはずである。さらに、この比較はサンプリングがそもそも同条件ではない。方や同年代の半数が大学に進むという状況での日本の大学生、方やそれなりにモチベーションもあり、母国での大学生の平均的水準に比べれば多少なりとも選別を経た外国人留学生。学力試験的なテストで比較すれば後者の方が高い正解率を示すことがあっても仰天するほどのことではない。
さらに、「日本語力」という概念自体がかなり曖昧である。例えばバーンスタインの「精密コード」「制限コード」といった類いの区別くらいはしておきたいところである。「制限コード」に相当するような、日常的な言語能力に関して「低下」が起こっているとは私は思わない。問題なのは「精密コード」を操る能力の低下であろう。これについてはまあ、読書量に関する調査結果を踏まえるなら低下しているという推定は十分成り立つ。セカチューや『Deep
Love』がベストセラーになってしまう時代だし。しかし問題を「精密コードレベルのリテラシーの低下」と捉えるならば、漠然と「日本語力の低下」と捉える場合とはまた別の議論が可能にもなり必要にもなるはずである。
さて、「丸激」は15歳の学力国際調査について2000年における順位が悪くないことを紹介しつつも、同時に勉学へのモチベーションが低いこと(数学リテラシーの順位は高いが、「算数(数学)が好きか?」という問いに対して「イエス」と答える人数の割合は最下位に近い)を指摘し、これこそが真の問題だと論じられている。2004年の調査での順位の低下にせよ、「日本語力」低下にせよ、現象への対処療法ではなくモチベーションの低下(学校文化へ参入しようとする意欲の低下)にこそ目を向けねばならないというのは正しいと思われる。動機付けの希薄化を放置してカリキュラム面で時計の針を逆に戻すだけでは、多くの「落ちこぼれ」を出すだけの結果になりかねない。
この問題の複雑さは、まったく異なった政治的動機からほとんど同じような結論が出てきたりすることからもわかる。産經新聞がナショナリスティックな観点から「日本語力低下」を「憂え」てみせるかと思えば、左派の教育学者やジャーナリストが「機会の平等の危機」という観点からやはり「ゆとり教育」を批判し、労働力の質の低下を懸念する財界の一部や産業経済省がこの合唱に加わる。他方でリベラル派と新保守主義とが「ゆとり教育とエリート教育の二本立て」という路線で一致する…といった具合である。
番組中でも苅谷剛彦が名指しで批判されていたし、宮台真司は別の機会にも苅谷剛彦や斎藤貴男、佐藤俊樹らに代表される「格差拡大の危機」論を批判している。ただややこしいのは、宮台真司が(そして寺脇研が)機会の平等を軽視しているとか階層の固定化を容認しているということでは必ずしもない、という点である。宮台真司は「機会の平等」のためにこそ(出身階層に依存せず「出世」することを可能にする)エリート教育が必要、と主張しているからである。
このようなねじれの背景は次のようなところにあるのではないかと思われる。
・これまでの日本社会における、「豊かなライフスタイル」像の画一性を前提とするならば、上級ホワイトカラー職へのアクセスにとって決定的に重要な高等教育の可能性が、親の所属階層によって大きく左右されることは格差の拡大再生産、固定化につながる…という見方が出てくる。他方で「豊かなライフスタイル」像が多様化することが望ましく、また今後そうなるであろうという前提に立つならば、上級ホワイトカラーだけが「豊かな生活」につながるわけではない…という見方が可能になる(苅谷剛彦や佐藤俊樹にもこうした視点はあるが)。
・学業への動機そのものが親の所属階層によって左右される…という点をどの程度重視するか。宮台真司は苅谷剛彦らに比べて「自律的な個人」という擬制をあえて引き受けようとする思考が強く、これに対して苅谷剛彦らは「そうはいっても人は環境の影響を強く受ける」という側面を重視していると言えよう。やる気の有無を問わずに社会のリソースを配分するという古典的福祉国家の理念ではなく「やる気のあるひとには等しくチャンスを」という理念で一致していたとしても、「自律した個人」という擬制をどの程度「敢えて真に受ける」かで結論は違ってくるわけである。苅谷剛彦らの議論がある種のパターナリズムに陥り、「適性のない分野で無理にがんばらされる若者」を生んでしまう可能性があるのも確かだが、他方で宮台真司的な割り切りが機会の平等を空洞化させてしまう可能性も無視できまい。
・とすると重要になるのは、教育への動機づけをもつ人間が親の所属階層に関わらず、またライフサイクルのどの時点で動機を持つようになったかに関わらず、高等教育へアクセスする機会を実質的に与えられるかどうか*、である。「丸激」中で寺脇研が「生涯学習」システムの存在や「日本国内ではいかに貧しいとはいっても、世界水準で見れば十分豊か」だという事実に言及したのも、この論点に関係があると思われる。現状では、私は宮台・寺脇コンビの楽観論に与することができない。少なくとも学費ローンや奨学金制度の充実が大至急達成されない限りは。
*さらに言えば、本人の強い動機づけによってうけた教育がその後社会のなかで正当に評価されるような態度が社会の側に成立していることも必要となる。「高校を中退してフリーターをしていたが、30歳を過ぎて一念発起し法科大学院を修了したものの、40歳近くなってしまえば結局ろくな職にはありつけない」ということであれば、「生涯教育」は結局のところ「高級カルチャーセンター」としての意味しか持たないことになる。
Posted: 土 - 12 月 11, 2004 at 01:22 午後
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