『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)


デーヴ・グロスマン著
心理学および歴史学のトレーニングを受けた軍人(執筆当時はウェスト・ポイントの心理学、軍事社会学教授)による意欲的な研究

後で述べるような不満もあるものの、非常に貴重な研究である。このような研究を許容するところがアメリカ軍の懐の深さであろう(と同時に、その懐の深さが恐ろしくもあるのだが)。
本書の中心的なメッセージは「人はそう簡単に人を殺せない」という一見当たり前に見えるものだが、その内実は非常に衝撃的だ。第二次世界大戦における米軍の歩兵のうち、戦闘中にライフルを発砲した兵士はわずか10〜15%しかいない、というのである! 残りの者は自分や同僚の命が危うい状況であっても発砲しようとしなかったし、発砲した者の内にもわざと当たらないように撃った者が含まれている可能性がある。では兵士の大半は「腰抜け」なのか? そうではない。彼らは負傷者を救助したり弾薬を運んだりといった、より危険な「任務」を積極的に引き受けることによって発砲を回避しているのである。これは第二次世界対戦の米軍に特有なことではなく、むしろ歴史的にみて普遍的な現象である、と筆者は言う。平時ならソシオパスと呼ばれるであろうようなごく少数(本書によれば2%)の人間を除けば、人は自分の命が脅かされている状況でも人殺しを避けようとするのである。
こうしたことがほとんど一般に知られていない(ないし理解されない)理由は、戦場において兵士がおかれた状況を「殺るか殺られるか」と単純化してしまうことにある。実際には、敵対的な関係におかれた個体には他に「逃げる」「降伏する」「威嚇する」という選択肢があるのだ。
これは人類について大きな希望を与えてくれる事実であるが、他方でその希望を危うくする事実もある。爆撃や砲撃といった遠距離からの攻撃手段、敵への共感を遮断するプロパガンダなどが殺人への抵抗感を大幅に減少させることはよく知られていると思うが、筆者曰くオペラント条件づけの技法を用いた訓練によって歩兵の発砲率を大幅に向上させることができるというのである(実際、ベトナム戦争では米軍の発砲率は劇的に向上している)。
しかしながら、オペラント条件づけによる発砲率の向上は、「ためらう前に撃ってしまう」ようにするための訓練、言い換えれば殺人への抵抗感をなくすのではなくバイパスするための訓練の結果であるから、結果的には「人を殺した」という重荷を背負う兵士の数を増やすことになりかねない。かくして、本書の後半ではベトナム帰還兵の問題にかなりのスペースが割かれ、「人を殺した」兵士を社会がどのように受け入れるべきかが考察されることになる。
本書への不満の第一点はこの点に関わる。ひとことで言えばベトナム戦争への評価が甘すぎるのである。アメリカ人はベトコンにとってあの戦争が革命戦争であったと同時に民族独立戦争でもあったということをどうしても理解できないらしい。共産主義の歴史的評価が定まりつつあるからといって、アメリカが支援した南ベトナムの腐敗した体制が正当化されるわけではない。
軍人である筆者が戦争(目的)の政治的評価にはあまり踏み込まず、兵士のメンタル・ケアに重点を置くのは理解できないことではない。しかしながら国家(国民)は、帰還兵士に対して無条件に「君たちは正しい、やるべきことをやった」と言うべきなのだろうか? 殺人を犯したというトラウマを無条件で「正しいことをしたのだ」と合理化することによって癒すべきなのだろうか? 「新しい教科書を作る会」の運動などはそうした誘惑の甘美さを証しているわけだが、これは戦争の正当性という問題に蓋をしてしまいかねない態度であろう。
もう一点の不満は本書の末尾(第8部)で展開される「テレビゲーム・メディア害悪論」である。むろん、ゲームやテレビ・映画の残虐描写が青少年の行動に悪影響を与えることはない、とアプリオリに結論することはできない。本書の場合、オペラント条件づけという理論的装置を用いて議論している点で、短絡的なゲーム批判、メディア批判とは一線を画しており、この点は高く評価できる。しかしながら、ゲームをしたりテレビを見る青少年と、実験室の鳩や訓練キャンプの新兵とでは決定的に異なる点がある。後者はその環境から自由に離脱できない、という点だ。半世紀以上も前に、メルロ=ポンティは「条件づけ」が実験室的な環境でのみ生じる一種病理的な現象であることを指摘した。本書の議論についても、同様の観点からの批判的な検証が必要であろう。

Posted: 木 - 6 月 3, 2004 at 10:59 午前          

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