新自由主義と心理主義の野合


小沢牧子・中島浩籌、『心を商品化する社会』、洋泉社新書y
斎藤貴男、『安心のファシズム—支配されたがる人びとー』、岩波新書
香山リカ、『<私>の愛国心』、ちくま新書

いずれも以前に読んだ同じ著者(一冊については共著者の一人)の本と内容的にかぶる部分が多い。その意味で目新しい論点は少ないのだが、昨今の出版事情では似たような内容でも新しい本にしなければ書店においてもらえないのでやむを得ない、というところだろうか。「読み継がれる本」ということばはほとんど死語になってなってしまったようだ。

とはいえ、たまたまほぼ同時期に出た三冊を一気に読むとおなじみの議論がまた別のニュアンスを持って読めるのは興味深い。特に心理主義と新自由主義の野合ぶりがはっきりと浮き彫りになっているところ。「自己責任」が大流行りのいま、なぜか「こころ」の問題は「自己責任」には任されずに指導の対象とされるようになっている。小沢・中島と斎藤がそろってとりあげている『心のノート』はその象徴であろう。社会の中で生きてゆくことのメリットが自明であるならば、子どもは放っておいても社会的存在として育つものである。日本という社会の中で生きることのメリットを持たない人間が増えるような方向性を選択する一方で、ソフトにかつ安上がりに人びとを管理する技術として心理学が利用される。心理学の技術主義が持つ政治性を指摘する小沢牧子の議論を読んでいて、カンギレムの心理学批判を思い出した。「行動管理の技術」としての心理学は人間を「装置」として理解するが、ではいったい心理学者はどんな「装置」なのか、という問いかけである。

香山リカの議論は『ぷちナショナリズム症候群』と同じく、「権威主義的パーソナリティー」研究の流れに属するものだといえるが、日本の病理を「乖離」として、アメリカの病理を「境界例」として分析するというのが新味ということになる。ただ、このような認識が政治的な有効性をもつかどうか…。著者に政策プログラムを要求するのが不当だということは承知しているが、下手をすると心理主義化の流れのなかにとり込まれてしまわないだろうか、という危惧は残る。

Posted: 土 - 8 月 14, 2004 at 10:27 午後          

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