『丸山真男『日本の思想』精読』を読みつつ『日本の思想』を読む
宮村治雄、『丸山真男『日本の思想』精読』、岩波現代文庫
丸山真男、『日本の思想』、岩波新書
丸山眞男は一時期あまりにもポピュラーになって単純化され図式化された印象が流通したがゆえに、かえってきちんと読まれることがなかったように思う。この半年ばかり『著作集』や『講義録』を読んでいるのだが、左翼からの「ブルジョワ自由主義者」という規定にも右翼からの「戦後民主主義の虚妄の象徴」という規定にも収まらない、実にニュアンスに富んだ思想家であることがよくわかった。もちろん、時代的な制約は多々あるにせよ、どちらかと言えばそうした制約よりも先見の明に驚かされることが多い。
例えば『日本の思想』の冒頭に収められた論文、「日本の思想」のまえがきを見てみよう。そこではまず「日本思想史の包括的な研究がなぜ貧弱なのか」という問題提起がなされており、それに対して「日本における思想的座標軸の欠如」という答えが与えられている。日本においては「思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されない」ことが「伝統」になってしまっていると言うのである。その裏面として、「過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむ」といったことが起こる。そのため政治的危機の時代には(維新の際の廃仏毀釈のように)「思い出」としての「伝統」がその直前の政治的言説とは内的な連関をまったく欠いたまま突如として「噴出」する、というのである。戦前にマルクス主義から「転向」した論者があっという間に大政翼賛的な言辞を吐くようになった内的論理もここに求められる。
これを現在の状況にあてはめるなら、だれもが「新しい教科書を作る会」をとりまく幾人かの論者を連想するだろう。湾岸戦争のころまでスターリニストだった藤岡信勝やブントの活動家だった西部邁はまさにその典型である。小熊英二が『<民主>と<愛国>』で指摘したのもまた、「思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されない」が故の、「戦後民主主義」をめぐる議論の混乱であった。
Posted: 土 - 10 月 2, 2004 at 03:14 午前
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