法月綸太郎、『生首に聞いてみろ』雑感
あるいはジャンルの困難さについて書くことについて
「本格探偵小説ないし名探偵という反動的装置、あるいは二十世紀の黄昏とともに疲弊しつつある物語と言い換えてもよいが、それらの延命策を講じることは、一つの倫理的な選択として容認できるのであろうか?」。問題は、こうした問いを自らに投げかけること自体がはらんでいる危うさなのである。そうした問いの構えを取ることによって、自分を空虚な高みに持ち上げ、倒錯したアイロニーの地点からささいな契機を過大に評価して、だらしない現状肯定と自己満足に行き着くとしたら、それこそ見るも無惨な内面の茶番劇、最低の思考パターンにほかならない。
(法月綸太郎、『二の悲劇』、祥伝社、164頁。原文のルビを省略)
私は本格推理小説のよき読み手ではない。そもそも本格推理のみならずエンターティンメント小説のどのジャンルをとっても(ハードボイルド、SF…)、特定の著者のものはほとんど読んでいるがその他多くの(重要な)著者の作品はほとんど読んでいない、という体系的かつ断片的な読み方しかしていない。したがって、以下に書くことは印象論の域を超えるものではない(ネタバレ含む)。
「(新)本格」というジャンルのはらむ問題性に自覚的な作家は少なからずいるが(他方でまったく屈託なく「本格探偵小説」を書いているとしか思えない作家もいるが)、法月綸太郎がそれに正面からとりくんでいる作家の一人であること、またそのことが彼の寡作さの原因であることはいまさら言うまでもないだろう。東野圭吾などは『名探偵の掟』などで笑いとして昇華させるという器用さで乗り切ったわけだが、法月綸太郎は上の引用が示すように作中の探偵(作者と同名の)に作中で悩ませるという道を選んだわけである。それにしてもこんなことを書いているようでは、そりゃあなかなか新作が書けんはずだな、と最初に読んだときに思ったのを思い出す。
こうした観点から新作の『生首に聞いてみろ』を読むと、なかなか意味深長である。各部の冒頭に数行ずつ引用されているルドルフ・ウィトコウアーの文章は、彫刻史における「目」の扱いについて述べたものである。すなわち、「人体のすべての部分のうちで目だけが、形からではなく、光彩と瞳孔という色彩だけからできた模様をしているという事実」に基づいて彫刻が抱え込んだ内在的困難について、である。さらに作中では石膏による型どりという手法を用いた人体彫刻が扱われ、この手法の内在的困難
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型どりの際には目を閉じざるを得ない
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の解決が事件のカギを握ることになる。作中では二つの解決策が考察され、そのうちの一つ、いかにも殺人事件にふさわしい解決策が真相であることが明らかにされる。本格推理が抱える内在的困難と彫刻の内在的困難とを重ねあわせ、後者の解決が事件の解決につながるという構成はいかにも見事である。それが本格推理の内在的困難を解決してくれるのかどうかは疑問であるが。というのも、作中における「彫刻の困難」の解決策を本格推理にあてはめるなら、「小説そっくりの事件を作者が起こしてしまえば小説はリアリティーをもつ」という結論が導かれかねないのである。
とすると俄然興味を引かれるのが、作中では途中で捨てられてしまうもう一つの解決策である。「目を閉じた像しかつくれない」という困難は「初めから頭のない像をつくる」ことによって回避できる、というものだ。本格推理の困難、彫刻の困難、作中事件の謎の三者の間に構造的な連関をつけた以上、この解決策に対応する何かを作者は考えたはずである。それは…
Posted: 土 - 10 月 16, 2004 at 02:04 午後
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