『安全神話のパラドックス』、『封印作品の謎』


河合幹雄、『安全神話崩壊のパラドックス ― 治安の法社会学』、岩波書店
安藤健二、『封印作品の謎』、太田出版

世の中にはなにがなんでも日本の治安が悪化していると考えたがる人々がいて、しかも興味深いことにしばしば「日本の歴史の否定的な面を子どもに教えるのは自虐的だ」と主張する層と重なっている。昔の日本の否定的な側面に目を向けるのは「自虐」的だが、今の日本の悪口を言うのはオッケーらしい。ま、これはパラドックスでもなんでもなくて非常に分かりやすい話に過ぎないのだが。とにかく、近年の日本で犯罪が急増し、しかも凶悪化しているという認識は(多くの専門家がしばしば否定しているにも関わらず)一定の支持を得ているわけである。
この問題については故あって少し調べてみたことがあるのだが、素人が政府(警察庁や法務省)発表による統計をざっと見るだけでもそうした認識が根拠薄弱であることはすぐにわかる。したがって『安全神話崩壊のパラドックス』においてもデータに基づき日本の治安の現状を分析しているのは第1部、分量にして半分以下であり、残りは日本社会の「安全」を支えていた見えないシステムと実態に反して(あるいは少なくとも実態以上に)治安が悪化していると認識されている原因についての分析にあてられている。現在第1部を読み終わって第2部に進んだところなのだが、内容的に一区切りついたのとこれまでの部分でもコメントしておきたいことがあったのとで、途中経過的にとりあげることにする。
帯に記された「本当に犯罪は急増し凶悪化しているのか?」という問いに対する答えをごくおおざっぱに要約するなら、「犯罪は戦後一貫して減少しているが、この数年は横ばい」というのが大きなトレンドだということになる。これは多少なりとも統計をまじめにチェックした人間にとっては周知のことであり、凶悪犯罪の代名詞である殺人については1955年ころから一貫して減少しており、この5年ほどをとれば横ばいないし微増というところだが、それでも人口10万人あたりの発生率にして1955年の3分の1以下、高度成長が一応の到達点に達したと言える1970年に較べても半分である。また、一口に「犯罪」といっても罪種ごとに大きな違いがあることと、司法当局の方針が統計におおきな影響を及ぼすことも無視できない。2002年の刑法犯は369万件で「戦後最高」と報道されたが、そのうち約84万件は交通事故(人身事故)である。またこれを除いた一般刑法犯約285万件のうち80%以上の約238万件は窃盗であるが、そのうちの50万件以上は自転車盗である(ちなみに少年犯罪の「増加」も、統計上は自転車盗の取り締まりが強化されたことによるところが大である)。これら、「治安」にとって二次的と思われるカテゴリーの「犯罪」を除外して犯罪発生件数を人口比でみるなら、ずいぶんと事情は変わってくる。さらにいわゆる「軽微な犯罪」の場合、警察に届け出があっても正式に受理せずに済ませてしまう「前さばき」が行われていたのだが、この方針を警察が2000年を境に改めたことも見かけ上の「急増」に大きく関わっているとされている。また「凶悪犯罪」としてカテゴライズされる犯罪のうち、強盗だけはこの数年急増しているとされているが、そのなかにはコンビニで万引きを見つけられ逃げる際に店員を突き飛ばしたとか、ひったくりの際に被害者が転倒したといった(以前なら窃盗として処理されていた)ケースが含まれているのである。
私は平均的な日本人よりも犯罪統計に目を通していると思うが、それでも初めて知った事実がいくつかある。例えば殺人事件の統計には殺人予備罪と殺人未遂が含まれている。驚いたことに、これらを除いた殺人既遂の統計は存在しないのだそうである。そこで厚生労働省のデータで殺人の被害者数を調べるとこの数年は600人程度であるが、さらにこれらのうちで最大のカテゴリーは「(無理)心中」である。殺人事件の裁判の量刑に注目して調べてみると、2001年のデータで約1300件の殺人事件のうち実刑で刑務所に入所するのは583人(半数以下!)に過ぎない。執行猶予付き判決が135人で、残りの600人ほどは不起訴ないし起訴猶予となる。「人を殺したのに不起訴」というと「心神喪失・心神衰弱」のケースを連想する人が多いと思うが、両者をあわせても90件しかない。
もちろん、殺人事件以外にも強盗致死、強姦致死など被害者が亡くなる事件はあり、むしろこちらの方が一般的な「凶悪犯罪」のイメージに合致するという点は無視できない。しかし殺人事件の大半が家族を含む顔見知りによる犯行であることもあいまって、凶悪犯罪の典型としてイメージされる「見知らぬ人間に理不尽に殺される」という事件の絶対数は少ない(自殺や交通事故では毎年万のオーダーで人命が失われている)し、近年急増しているということもなく(交通事故を含む刑法犯による死亡者数は2001年にここ40年で最小となったとのこと)、国際比較でも抜群に少ない(殺人事件の人口10万あたりの発生率にしてイギリスの半分以下、ドイツ・フランスの3分の1、アメリカの4分の1以下)。
「治安」の話題はある種の人々のツボを強烈に刺激するらしく、「犯罪は必ずしも急増・凶悪化していない」というデータを示すとヒステリックな反応が返ってくることが少なくないのだが、しばしば誤解されているのは次の点である。「急増・凶悪化」説を否定する論者は別に「少ないんだから気にしなくていいじゃないか」とか「急増しているわけじゃないんだから別に対策を立てる必要はない」と主張しているわけではない。統計的に多かろうが少なかろうが、犯罪被害者(やその遺族)にとって被害はあくまで個別的な出来事であり、彼らの個別的な痛手に配慮が必要なのはあたりまえである。しかし実数にして二けたも多い自殺者や交通事故死者よりも犯罪による死者にメディアの(そして「世間」の)注目が集まるといういびつさが問題なのである。また、対策というのは正確な現状認識に基づいてたてられるべきであって、ゆがんだ現状認識からは無益な(場合によっては有害ですらある)対策しか出てこない、ということなのである。第2部についてはまた後日。
途中までしか読んでいない『安全神話崩壊のパラドックス』をとりあげたのは、もう一冊の『封印作品の謎』とセットで扱いたかったからである。数ヶ月前に読んだ森達也の『放送禁止歌』と似た企画であるが、著者の力量には大きな違いがある。一言でいえば安っぽい本である。まず、映画『ノストラダムスの大予言』を扱った章での、あらすじの紹介が『映画秘宝』第6号「底抜け超大作」における山田誠二名義の記事とそっくりである。同じ映画のあらすじを記述すればある程度似ているのはしかたないが、これはそうしたレベルを超えて、(もし山田誠二というのが安藤健二のペンネームでないとすれば)パクリと言わざるを得ないほど似ている。本文中に『映画秘宝』の当該巻への言及があるので、著者がこのあらすじ紹介を読んでいるのもほぼ確実である。まあ、今月号の『映画秘宝』でインタビュー記事が掲載されているくらいなので当時者間でははなしがついているのかもしれないし、映画評の盗用ではなくあらすじ紹介のパクリなので悪質度は低いと言えるかもしれないが、志の低さをうかがわせる点ではある。
なにより、「はじめに」によれば著者が学生時代および新聞記者時代に(それぞれ違う立場で)自ら関わった「封印」事件が本書の執筆動機の背景にあると述べていながら、「封印」をめぐる事情についてまともに考え抜いたとは思えない記述があるのが致命的である。二つほど例を挙げておこう。
まずは第2章「裁かれない狂気」。これは円谷プロ製作の『怪奇大作戦』シリーズ第24話「狂鬼人間」の「封印」をめぐる章である。このエピソードは、かつて「精神異常者」に夫と子どもを殺された(そして犯人は「無罪」になった)女性が「世の中」への復讐のために「脳波変調機」を用いて他人に殺人を犯させたうえで「精神異常者だから無罪」という結末になるようしむけていた…というプロットをもつ。そしてこの第24話を扱った章のなかで、他のライターの発言の引用というかたちではあるものの「刑法39条を犯すものが、同じ精神異常者に家族を殺されていたという恐ろしい構図」(下線は引用者)という文章が無批判に書かれているのである。ちなみに刑法39条とは

第39条 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

というものである。この条文をちゃんと読めば、事件の黒幕である女性はもとよりそもそも一般市民にとっては「刑法39条を犯す」などということは不可能であるということがわかる。刑法39条が犯されたという事態があるとすれば、それはある犯罪の被疑者が明らかに「心神喪失」状態にあると知りながら検事が起訴したとか裁判官が有罪判決を下した、といったケースでしかあり得ない。「法律は民を取り締まるもの」といういかにも東アジア的(儒教文化圏的)発想ゆえに見落とされているのではないか。
また「刑法の矛盾」「現代社会の矛盾」といった表現も見られるが(後者はやはりインタビュー対象者の発言の引用)、これまた問題の捉え方が浅薄である。刑法39条は本書で著者自身が言及しているように「責任主義」という近代法の理念から帰結しているのであって、ここにはなんの矛盾もない。矛盾があるとすれば「責任能力のない人間には責任を問えない」とする近代的なロジックと「何かが起こったときにはとにかく誰かが責任をとらねばならない」という前近代的なロジック(それこそ場合によってはスケープゴートを生み出すことになるロジック)との間に、であろう。あるいは「精神障害者」を責任の主体として認めないと同時に権利の主体としては認める、とすればこれもまた矛盾と言ってよいが、現実には(未成年の場合と同様)権利の主体として十全に認められてはいないのだから、これまた今の日本社会において深刻な矛盾が生じているとは言いがたい。刑法39条についてはむしろ「精神障害者」の権利という観点から批判する議論もあるが、世論の大半を占めるのは(そして筆者の取材の出発点にあったのも)「人を殺したのに責任をとらないのはけしからん」という認識であろう。ようするに私たちは近代人になりきっていない、あるいは近代人であるふりをするという割り切りができていない、ということなのだ。「刑法の矛盾」という捉え方は問題の矮小化である。
筆者は学生時代に、神戸連続児童殺傷事件の犯人であった少年の写真を掲載した『フォーカス』を支持するHPをつくり、一時はHPで顔写真を公表していたという。その時の問題意識の延長線上に本書がある、というのである。それにしては少年法についての議論も通り一遍のものでしかない。例えば本書や『映画秘宝』でのインタビューでは「封印」「タブー」という言葉がたびたび用いられているが、虞犯少年の個人情報は明確な理念に基づいて立法された明文規定によって公表が禁じられているのであり、それに反対する立場に立つとしてもそれを(特撮作品のオクラ入り同様)「封印」と呼ぶのは適切ではない。また少年法に関しても「矛盾」という語が安易に用いられている。少年法は未成年に対してパターナリズム的な態度をとるという点で首尾一貫している。少年法といえば「犯罪を犯しても刑務所に行かずに済む」という側面ばかりが強調されるが、実は少年法は未成年に対して「甘い」ばかりの法ではない。成人の場合とは違って、少年の場合犯罪を犯す可能性があるというだけでも処分の対象となりうるのである。また、事件に関する情報が被害者や遺族に十分開示されないというのは一般の刑事事件の場合も同様であって、これは日本の司法制度(というよりその運用)一般が抱えていた問題であり、少年法に固有の問題というわけではない(『安全神話崩壊のパラドックス』はこのような秘密主義が犯罪を「異世界の出来事」として切断する日本社会のあり方と密接に関わっており、良くも悪くも「安全神話」の基盤になっていたとみているようである)。例えば本書は次のように言う。

 この事件を受けて少年法は00年に改正され、刑事責任を問われる年齢は16歳未満から14歳未満へと引き下げられた。しかし、刑事処分に特例が設けられている点では今も昔と大差はない。人を殺しても何も言われない年齢が2歳下がっただけだ。04年6月、長崎県佐世保市で同級生を殺害した少女は12歳だったではないか。

14歳で不満なら12歳に引き下げればよいというのか? しかし「14歳に責任を問えるなら12歳にも問え」というロジックに従うなら、数学的帰納法により新生児にも刑事責任を問わねばならなくなる。このような明らかなアポリアから目を背けて個別の事件をフレームアップするのは欺瞞的であろう。人間は「どう考えても責任能力がない」状態で生まれ、たいていの場合やがて「どう考えても責任能力がある」とみなされる状態へと成長してゆく。このプロセスが連続的なものである以上、法はどこかで線引きを行わねばならない。これは「矛盾」ではなく現場の恣意をなるべく排して法が普遍性を持つために必要な性質なのである。
本当の矛盾は、少年を権利の主体としては認めないのに刑事責任は問おうとする態度、ないし少年を権利の主体として認めることを主張しながら刑事責任は問わないことを主張する態度、にこそある(ただし、うえで述べたような「成長」というファクターを考慮に入れた時、「権利の主体」として認めることを「責任の主体」として認めることに先行させようとする後者の立場はプラグマティックにはある程度正当化可能であろう)。東京都が15歳以下の性交を禁止する条例の導入を検討…というニュースが話題になったが、セックスについてすら責任の主体でありえないとされる人間に刑事責任を問うとはいったいどういう了見なのだろうか。本書の著者にしても、刑事責任を追及される年齢の少年が諸々の権利を制限されているという事実を完全にネグっている。要するに問題をよく吟味せずに全てを「封印」「矛盾」といったマジックワードでくくって済ましてしまっている姿勢がなんとも安易なのである。

Posted: 金 - 10 月 22, 2004 at 02:21 午前          

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