『人権擁護法案』は曖昧か?
「人権侵害」の定義をめぐって
4月1日追記(冒頭の太字ゴチック体の部分)
Bewaad Insutitute@Kasumigaseki の
bewaad
様が4月1日付けのエントリ「人権擁護法案反対論批判
法案分析編(その3)」にて当エントリに言及されるとともに当方のミスについてご指摘いただいているので、ご報告いたします。下記の第3条をめぐる記述について、同条に含まれる「その他」という表現は例示を意味するので、例えば第3条1項2号ロが対象とするのは「特定の者に対し、その者の有する人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせ」だけではない(より範囲が広い)というご指摘です。ご指摘を感謝いたしますとともに、読者におかれてはこの点ご留意のうえ下記をお読みいただきますよう、お願いいたします。この点をふまえるならば、第2条は第3条における「例示」によって限定されていると書くべきだったことになります。つまり下記の議論が示唆するほどには「人権侵害」の範囲は明確に限定されているわけではないが、かといって反対論に少なからずみられる「なにが人権侵害とされるか予想もつかない」という主張が誇張である、という当方の主張は維持できると思われます。第3条の「例示」からかけ離れたものを「人権侵害」とするわけにはいかないのですから。Googleでの「人権擁護法案」の検索結果をずうっと眺めていると、ちらほら「反対論の行き過ぎ・誤解」を指摘するサイトもあり、また法案に実効性が乏しいとして批判するサイトもあるにはあるが、やはり大多数は「反対派」のサイトである。そのすべてがデマを流しているわけではなく、またそのすべてが悪意によるものではないのはもちろんではあるが、どう考えても悪意に基づいてこの法案についてのデマを振りまいているサイトがあるのは否定しがたい。難癖としか言いようがない批判は、要するにこの法案の趣旨に反対なのだとしか理解できないからだ。さて、ここでは比較的真っ当な反対論を展開しているサイトでもよく見かける論点について考察してみたい(特定の論者の特定の議論を問題にするわけではないので、リンクは行わない)。すなわち、この法案における「人権侵害」の定義が曖昧かどうか? である。この種の批判の中でも悪質なのは、第2条にある「この法律において「人権侵害」とは、不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為をいう」という文言だけに依拠して、「人権侵害=人権を侵害する行為、なんて同語反復じゃないか!」とする類いのものである。なぜ悪質かといえば、・同じ第2条に、この法案が対象とする人権侵害の範囲を限定するための規定がある・第3条において、この法案が対象とする人権侵害の範囲が限定されている・42条、43条において、第3条が規定する人権侵害のうち人権委員会が必要な措置をとるべきものの範囲がさらに限定されているということを無視しているからである。例えば特定個人に対する差別発言を例にとって言えば、第2条1項ではなるほど「人権侵害」=「不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為をいう」としかされていないが、3条1項2号イにおいてそれが「特定の者に対し、その者の有する人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動」として限定され、さらに2条の2項以下を参照すればこの「人種等」が「人種、民族、信条、性別、社会的身分、門地、障害、疾病又は性的指向」を指すこと、また社会的身分、障害、疾病がそれぞれ「出生により決定される社会的な地位」「長期にわたり日常生活又は社会生活が相当な制限を受ける程度の身体障害、知的障害又は精神障害」「その発症により長期にわたり日常生活又は社会生活が相当な制限を受ける状態となる感染症その他の疾患」に限定されていることが明らかにされている。嫌な言い方になるが、他人の悪口を言いたければ次のようにすればオーケーということになる。○○が「人種等」に該当するカテゴリーとし、△△が罵倒語とすると、「お前は○○だから△△なのだ」という言い方を避け「お前は△△だ」とするか、特定個人に向ける形式をとらず「○○はみな△△だ」とするか*、あるいは「人種等」に該当しない□□というカテゴリーを用いて「お前は□□だから△△なのだ」と言えばよいのである。*
ただし、○○に該当しその旨を公表している人物が開設するホームページに付属する掲示板において「○○はみな△△だ」と書き込んだ場合、それが特定個人に向けた侮辱であるとされる可能性はある。が、これは特定個人への侮辱を意図したものと解されても文句は言えまい。さらに、42条1項2号において、人権委員会が必要な措置をとるのは、3条1項1号イが規定する言動のうち、「相手方を畏怖させ、困惑させ、又は著しく不快にさせるもの」に限ることが規定されている。こうしてみると、この法案が「人権を侵害する行為」を漠然と取り締まる法案でないことは明らかであろう。もちろん、これでも「批判と侮辱の境目はどこなのか?」とか「著しく不快にさせることとちょっとだけ不快にさせることの境目はどこなのか?」といった曖昧さが残るのは事実である。そして、「法律は曖昧であってはならない」というのは一般論としてはその通りであって形式的には正しいが、実質的には意味のない批判である。なぜなら、「個別的・具体的な行為の集合を一般的・抽象的な表現で規定する」のが法の宿命である以上、いかなる意味でも曖昧さを持たない法は実質的に存在しえず、また存在し得たとしたらほとんど実効性を欠いてしまうからである。例えば「著しく不快」をより厳密に定義するために、「その言動によるPTSDと複数の医師によって診断された症状を呈した場合、あるいはその言動に接することによって血圧が平常値より25%以上上昇した場合」とすれば曖昧さは減ることになるが、それでも「その言動に接することによって、とはその言動が進行中に限るのか、あるいはその言動が完了してから何秒以内ならOKなのか」などの曖昧さは依然残ることになるし、他方で打たれ強い人にひどいことを言うよりも打たれ弱い人にちょっとしたことを言う方が「人権侵害」だとされてしまう…といった矛盾が生じることになる。曖昧さを回避するもう一つの手段は、具体的なケースをたくさん列挙してそうしたケースに限定するというものであるが、これには条文がとてつもなく長く、また複雑になってしまうという弊害の他に、法案作成時に想定しなかった無数の新しいケースには対応できなくなってしまうという欠陥がある。このように、厳密さと一般性・柔軟性とはトレードオフの関係にあるのであって、不必要に曖昧であることはもちろんあってはならないにしても、寸毫も曖昧さを残さない条文などつくりようがないのである。これは言語が持つ本質的な限界であって、人権擁護法案の問題ではない。では、こうした本質的な曖昧さに実務面ではどのような対策があるかといえば、立法の趣旨による制約や具体的な判断(判例など)の積み重ねがそれに当たる。後者について言えば下級審は最高裁の判例に拘束されるのであって、過去に最高裁で「合法」とされたのと同じような事例を「違法」とすることは(そしてその逆も)おいそれとはできないのである。じゃあ「同じような」と判断するかどうかは恣意的じゃないかとか、最高裁の判例そのものが間違っていたらどうするのか…と言われればそれはその通りで、最終的な保証は「常識」、この場合で言えば裁判官の、そして裁判官を任命する人間の「常識」に求めざるを得ない。この「常識」が正しいというアプリオリな保証がないのはまたしてもその通りである(だから、その「常識」に対して常に問題意識を持っておくことは必要である)。しかし、これは人間の、あるいは社会の本質的な限界なのであって、人権擁護法案にそうした限界があるからダメだ、というのは言いがかりもいいところであろう。したがって、「曖昧だからダメだ」という批判が実質的に有意味なものとなるためには、これまで日本において運用されてきた法案と比較して人権擁護法案に不必要かつ危険な曖昧さがあることを具体的に指摘しなければならない。さて、既存の法律を眺めてみれば、実際には「曖昧」な規定だらけである。「公共の福祉」はすでに例に出したので、このブログの主要コンテンツであるロッキード裁判にちなんで収賄罪を例にとってみよう。収賄罪とは「公務員又は仲裁人が、その職務に関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、五年以下の懲役に処する。この場合において、請託を受けたときは、七年以下の懲役に処する」(刑法197条1項。2項および197条の2以降については省略)、というものである。これについても、立法の趣旨や判例による限定を無視するなら、「その職務に関し」とか「賄賂」(刑法197条には「賄賂」の定義はない)とか「要求」とかを無茶苦茶に拡大解釈することは可能である。例えば出勤のために車に乗ることも「職務に関し」と言えば言えるわけで、そうすると“マイカー出勤の途中でヒッチハイカーに会い、ちょっと遠回りして○○駅まで載せていく代わりにおにぎりを貰った”ら収賄だ! となってしまうわけである。人権擁護法案が通ったら「北朝鮮に経済制裁を!」と主張できなくなる、というのはこれと同じくらい荒唐無稽なはなしなのだ。法律の条文だけをとればどんな拡大解釈も可能である。それこそ憲法12条の「公共の福祉」などはマジック・ワードになりうるわけで、「特定の団体の意を受けた、非常識な人物」が総理大臣になれば(いくつか具体名も脳裏に浮かんだが自粛)原理的にはあらゆる権利・自由を「公共の福祉」の名のもとに制約できてしまうのである。以前に私は、この人権擁護法案よりはるかに強力な反差別法を持つヨーロッパ諸国と比較して、「おそらくヨーロッパの市民社会には、こうした微妙な法をうまく運用してゆくだけの自信があり、人権擁護法案に反対している日本の自由主義者にはそうした自信がない、ということなのだろう」と書いた。実を言えば、私もまたこの点に関して曇りなき自信があるわけではない(なにしろ都知事が以下略)。しかし問題なのは自信だけではなく気概でもある。「できるかどうか」も大事だが「やってみせるかどうか」も肝心なのだ。私は、「差別したいで厨」の片棒を担いでこの法案をお蔵入りさせる(それこそ悪であると言い切れる©クワトロ・バジーナ)よりは、万全とは言えないこの法をきちんと運用してゆくための努力を惜しまない、という方にコミットする。
Posted: Thu - March 24, 2005 at 02:18 AM
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