現実主義という名のシニシズム
『サイゾー』7月号、山形浩生「今月の喝!」
「国や政府の理念先行型理解」というサブタイトルが付けられた連載コラムで山形浩生が実にくだらないことを書いている。ある種のシニシズムは彼のスタイルであるということは承知しているが、それにしても論点のすり替え・歪曲がひどい。
このコラムの論旨はそれ以前に朝日新聞に寄稿した、イラク日本人人質事件に関する「自己責任論」批判への再批判を敷衍するというものなので、両者をセットにして要約するならば次のようになる。「政府はコミュニティ財産の管理人でしかない。その資源には限界があるので無駄遣いを回避するルールが必要である。つまり、ない袖は触れないのであって、理念的にやるべきことをその実現可能性を無視して要求するならば、国家のリソースは底をついてしまう。にもかかわらず、抽象的な理念から出発して"自己責任論”を批判する輩が多い。」
そしてそうした「理念先行型批判」の例として、前月号での宮台真司×宮崎哲弥対談(『M2 われらの時代に』)をひきあいに出しているのである。
国民を保護するという国家の義務が現実問題としてはコストによる制約を被るという点についてはこのBlogでも指摘しておいたし、宮台真司もまた「納税者が税金の使われ方に対してシビアな意識を持つようになったことはめでたい」といった趣旨のことを(皮肉まじりに)何度も述べている。そして本Blogおよび前月号のM2対談がターゲットとしているのは国家のリソースの有限性を問題にするといった「高尚」な議論ではなく、「国のいうことを聞かないやつをなんで国が助けなきゃいけないんだ」「政治的なことは国に任せておけばよいのであって、NGOなどというわけの分からん連中は必要ない」といった、理念レベルで幼稚な議論なのである。
もちろん、国家のリソースの有限性を無視した議論が存在したことは確かであろう。しかしながら山形が唯一具体的に言及したM2対談がそうした議論でなかったことは明らかである。リアリティを欠いた理念先行型の議論が無力であるだけでなくしばしば有害であるのは間違いないが、同時に理念を欠いた現実追認の議論はけっして無力になることがないだけにかえってたちが悪い。ましてや今回の事件の場合、「自己責任」論自体もシビアなリソース計算というよりは「サヨク」やNGOへの反感にもっぱら由来しているのである。形式的にみて山形の議論に妥当性があるとしても、具体的な反論対象としてM2対談を引き合いに出したのは愚策であった。私には自らのシニシズムを突かれた(現実にはM2対談はそうしたシニシズムを対象としていなかったので、被害妄想なのだが)ことに対する逆ギレ的対応としか思えない。
Posted: 水 - 6 月 23, 2004 at 11:05 午後
Comments