『世界日報』のミルトン・ダイアモンド教授インタビューほか(27日追記)


「ジェンダー・フリー」バッシングの舞台裏@macska dot org&こんぶダイアリー

他の方のブログのURLだけを紹介しておしまい…というエントリは極力書かないようにしているのだけれど、これについては私が付け加えることのできるものもない* 一方、なるべく広く伝わってもらいたいのであえて。

「諸君!」鼎談のジェンフリ・バッシングは相変わらず嘘だらけ
ミルトン・ダイアモンド教授が「ジェンダーフリー支持」を明言
世界日報・山本彰記者によるインチキ取材の手法を暴く

ご紹介だけなんでトラックバックもしません。( macska さん、万一ご覧になるようなことがあったらこのような次第ですのであしからず)

* と思ったのだが、せっかく自分でも例の鼎談を読んでいたことだし、ついでなので macska さんが

仲正さんの言ってることも、セクハラのあたりとかおかしいんだけど「馬鹿なフェミニストは」と一々言っているので、まぁ確かに馬鹿なフェミが存在していて馬鹿な事を言っているのは事実だし、なんだか卑怯な言い方だなと思いつつ黙っておきます。

と片付けている点について追記。セクシャル・ハラスメントについての仲正昌樹の主張は概略次の通り。

(1)セクシャル・ハラスメントは性に関する男女の感受性の差を前提としている
(2)例えば、男は女の上司に体を触られてもセクハラと感じないことが「少なくない」
(3)ところがジェンダー・フリーはこうした感受性の差を許容しない
(4)したがってセクハラを追求すればジェンフリは絵に描いた餅になり
(5)ジェンフリを追求すればセクハラなんて存在しないことになってしまう
(6)にもかかわらずセクハラの追求とジェンフリが簡単に両立すると思ってるフェミは馬鹿

さて、まず(1)に脱落しているのは、セクシャル・ハラスメントが上司/部下、教師/学生のように権力において非対称的な人間関係のなかで発生するものだ、という視点である。最大限好意的に解釈するなら、いわゆるセクハラは非対称的な権力関係を利用して行なわれる人権侵害として、あるいは単なる刑事犯罪として扱えばよく、ことさら性的な側面を強調することはない…などという見解だとみるのは無理でしょう、この記述じゃ。たしかに「馬鹿なフェミニスト」のなかにはもっぱら性的な側面だけに着目してむやみに「セクハラ」の外延を拡張し、結果として内包を空洞化させている論者がいるのかもしれない。しかし自分で「そんな馬鹿なフェミニストは放っておけ、自分はもっと賢いフェミニストとつきあっている」と語りつつ、その「賢いフェミニスト」の見解を紹介しないのでは、『諸君』読者に“セクハラのすすめ”を行なっているようなものだ。
(3)以降は論理的に破綻している。まず(3)が「ジェンダー・フリー」の矮小化であることについてはとりあえず目をつむることにしても、なぜ(3)から(4)、(5)が帰結するというのか。(1)と(3)からは「ジェンダー・フリーが貫徹されればセクハラ問題は解決される」という結論が出てくるはずである(もちろん、大前提も小前提も間違っているので意味のない結論だが)。これまた最大限好意的に解釈するなら、「セクハラ追求」と「ジェンフリ」の双方が運動体の論理に引きずられて自己目的化した場合、両者の運動体としての利害は対立する(禁煙運動が喫煙者の存在に依存しているように、セクハラ追求はジェンフリの理念を受け付けないセクハラ野郎の存在に依存しているから)、ということだろうか。しかしそんなことを『諸君』で指摘したって仕方ないだろう。
(3)に立ち戻るなら、ここで無視されているのは“性に関する感受性の違いは男女間にあるだけでなく、男(女)の間にもある”というあたりまえの事実である。また、(2)で「少なくない」としか語れなかったことではしなくも露呈しているように、仮に一枚岩の「男の感受性」を前提したとしても、「女の上司」の行為が「男の部下」にとってセクシャル・ハラスメントであると感じられる場面はやはり厳然として存在する、ということでもある(筋金入りのセクシスト男性は、まさにセクシストであるが故に、女性からのある種の行為を性的侵害と感じるだろう)。さらに同性間のセクシャル・ハラスメントに対する目配りも欠けている。そもそも「感受性」の違いを問題にするのであれば、(2)のように「女(の部下)/男(の部下)」間の違いではなく「(男の)上司/(女の)部下」間の違いを問題にしなければならなかったのである。「権力関係の非対称性」という観点を欠落させたが故の、ボタンの欠け違いであろう。
(26日追記)

さて、macska さんの議論もふまえつつ八木秀次らの「ジェンフリ」バッシングをとりあげてこられた牧波さん(こんぶダイアリー)からも貴重な検証結果が。こちらの「「諸君!」鼎談のジェンフリ・バッシングは相変わらず嘘だらけ -ver.makinamikonburoh-」(http://d.hatena.ne.jp/makinamikonbu/20051126/1133003547) をご覧ください。八木秀次がきわめて恣意的な引用を行なうことにより、「ジェンダーが生得的要因と文化的要因の相互作用によって決まる」と主張した文献を「ジェンダーは生得的要因によって決まる」という証拠のように見せかけていたことが暴露されてます。
「南京事件=マボロシ」説を例に挙げるまでもなく、トンデモ説にはこの恣意的引用がつきものです。というのも、トンデモ説にはたいてい論拠になるような資料が欠けているため、根拠があるかのように見せかけるには資料を捏造するか、都合のいいところだけつまみ食いするしか手段がないからです。とはいえ、直感的に「この議論はおかしい」と気づくのは比較的簡単でも、引用された文献にあたって検証するのはコストがかかるもの。立花隆が渡部昇一のロッキード裁判批判についていったように、デタラメを言うのは簡単だがそのデタラメさを明らかにするのはずっと手間がかかります。牧波さん、ごくろうさまでした!

Posted: 金 - 11月 25, 2005 at 10:12 午後          

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