相変わらずの「原因」探し…


佐世保の小学生女児殺人事件。情報が足りないときには判断を保留するのが正しいはずなのに…

新聞、テレビには早速「チャット」「ホームページ」「パソコン」といった単語があふれている。もちろん一般論としては、コンピュータやインターネットというアーキテクチャの特性がコミュニケーションに歪みをもたらし、それがトラブルの背景となる可能性はある。しかしながら、この事件に限らず犯行の「動機」について考える際には
・人は自分の行動の動機をそうそう明快に説明できるものではない(そもそも明快な動機が実体として存在すると考える根拠はない)
・警察が発表する「犯人」の発言は、捜査員の誘導に従い捜査員を納得させるべく行われているのであって、それを鵜呑みにするわけにはいかない
という2点に注意しなければならない。「なぜAをしたのか?」「Bだから」「なぜBなのか」「よくわからない」「それじゃ納得できない」「じゃあCだから」「ではなぜCなのか」「Dだから」「いやそれはおかしい、Eじゃないのか?」…Aの部分に職業選択なり、配偶者選択なり(の、それなりに重大とされる意思決定の事例)を入れてこうしたやりとりを想像してもらいたい。じきに「単一の、明確な動機」なるものの存在が危ういことが分かるはずだ。しかも警察での取り調べの場合「分かってくれないならもういい」と話しを打ち切るわけにはいかないのだ。結局、世間が納得する(と捜査員が考える)定型的な回答の鋳型へと流し込まれてしまうことは必定と言ってよい。
これはもちろん、人の行動を理解する試みが無益だと言っているのではない。意思決定というのは我々の多くが思う以上に複雑なプロセスであり、その複雑さに見合った多面的な取材と理論的モデルの採用によらねばならない、ということである。司法プロセスは(今回の場合刑事責任は問われないとはいえ)基本的に「有罪か無罪か」「殺人か傷害致死か、過失致死か」を判定するという目的をもっているのであり、司法による「動機の解明」は極めて限られた目的論的解釈に過ぎないのである。
「判断を保留するのが正しい」と書いた以上、当方としても積極的になにかを語るつもりはないが、少なくとも現時点でマスコミが描いているストーリーには大きな穴がある。なにしろ同級生なのだから、「匿名性の高いネットの世界におけるコミュニケーションの歪み」という定型をそのまま適用できないことは明らかなはずだ。「容姿に関する悪口を言われた」といったトラブルはそれこそ対面的な同級生ネットワークのなかでもしょっちゅう起きるものである。したがって、「チャット」云々はたまたまそうであったに過ぎず、休み時間のおしゃべりでも同じような動機を形成し得た可能性がある。他方で、もしチャットというアーキテクチャの特異性が大いに関与しているというなら、問われるべきはそうした特異性を中和できなかったクラスの対面的人間関係の方である、と考える余地もある。

もう一つ。『バトル・ロワイヤル』を愛読していたなどという情報が流れているようだが、これについても(幼女殺害事件の宮崎の場合と同様)フレームアップである可能性を念頭に置いておかねばならない。他に10冊の本を愛読していても警察やマスコミが飛びつくのは『バトル…』のような本なのだ。仮に石原慎太郎の初期作品を愛読していた少年が殺人を犯したら、警察はどう対応するのだろうか…と不謹慎な想像をしてみたくなる。

Posted: 木 - 6 月 3, 2004 at 10:21 午前          

Comments



©