コストを具体的に計算せずに現実主義を語られても困る
「現実主義という名のシニシズム」というタイトルで紹介した『サイゾー』7月号の山形浩生のコラムに関して、同氏が8月号でコメント
以前に山形浩生が
政府はコミュニティ財産の管理人でしかない。その資源には限界があるので無駄遣いを回避するルールが必要である。つまり、ない袖は触れないのであって、理念的にやるべきことをその実現可能性を無視して要求するならば、国家のリソースは底をついてしまう。にもかかわらず、抽象的な理念から出発して"自己責任論”を批判する輩が多い。
という論旨の宮台真司・宮崎哲哉批判をしていたことを紹介し、批判的コメントをアップした。その後宮崎哲哉から山形浩生へ「論旨を誤解している」という趣旨のメールが届いたそうで、今月号では“要するに口では全力を挙げて救出しますといい、裏では無い袖は無理に振らない”的な「建前と本音の使い分け」をすればよいのね、とすねてみせるコラムを書いていた。
しかしながら、(もちろん宮崎→山形メールを読んでいないので断言はできないのだが)これもまた相手の論旨の矮小化ではないかと思う。そもそも山形浩生の7月号でのコラムに欠けていたのは「では人質の救出にどれくらいのコストがかかったのか」を検証する態度である。もちろん人間3人の命の対価としてどれくらいの金額を許容するかは容易に算定できる事柄ではないが、件の事件に関して政府が「国家は国民を保護する義務を負う」という理念を揺るがすほどのコストをかけたとは到底思えないのである。コストに関する具体的な議論を抜きにして、「抽象的な理念ばかりを吠える輩に対抗して1人現実的な議論をする」という悲劇の主人公を演じられても観ている方はしらけてしまうのである。
「政府はコミュニティ財産の管理人でしかない」という国家観は確かに一つの理論的立場として理解できる。しかしだれを財産の管理人にするにせよ(例えば国家に代わって市場を全面的に管理人にするという発想もある)、人々が管理人にある程度の信頼を寄せるのでなければ管理人としてはうまく機能しなくなってしまう。その信頼を確保するためのコストはある程度許容しなければならないのである。
Posted: 火 - 7 月 27, 2004 at 12:06 午前
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