人権擁護法案(その2)


異なる法理のごった煮

自民党内からも慎重論が出てきて、成立するかどうか微妙になってきた人権擁護法案。
マスコミではもっぱら「マスコミ規制」の部分をクローズアップし問題視する報道が目立つが、むしろ異なる取り扱いをうけるべきさまざまな問題が「人権擁護」の名で一括りにされてしまっているところに問題があると言うべきではないだろうか。第154回国会で提出された法案の第42条をみればこの法律がカヴァーする問題がどのようなものであるかがわかる。42条の1項は全5号からなり、第1号では国や企業による差別的取り扱いが、第2号では差別的言動が(ネット上ではもっぱらこれが問題にされているようだ)、第3号では各種虐待(公務員によるもの、医療福祉従事者によるもの、教育者によるもの、親によるもの、配偶者によるもの、高齢者介護者によるもの)が、そして第4号ではいわゆる「報道被害」が扱われている。こうして並べてみると「公権力による人権侵害と私人による人権侵害とをともにカヴァーしている」点、そして被害の形態が古典的なもの(典型的には身体への危害など)とそうでないもの(マスコミによる「つきまとい」や差別的言動による「不快」感など)とが混在していることがわかる。特に問題なのが後者である。実際、上に挙げた4つ(第5号は前記4号に準ずるものを対象としている)のうち、第1号と第3号に異議を唱える人は少なくないと思うが、この二つは従来から法による規制や救済になじんできたものである。例えば第1号が想定しているようなケースについては、性別等を理由とする昇進差別について民事訴訟を起こすという手段があったし、第3号が対象としている行為は「特別公務員暴行凌虐」「保護責任者遺棄」「傷害」などの従来の法で処罰の対象となるものばかりである。これに対して第2号と第4号が対象としている行為は、それが「被害」を与えているかどうかについて明確な合意がなかったものである。まさにこの点にこの立法の意義があるとも言えるわけだが、他方で対象の曖昧さが濫用を生むのではないかと危惧されてもいるわけである。人権侵害に該当するか否かの判断をめぐる合意が容易なものとそうでないものとを一つの法案でくくってしまうのは確かに問題が多いわけで、私見では第2号に該当するようなものは独立させるべきである。

実際のところ、マスコミが第4号ばかりを問題にするのは「自己保身に走っている」と言われてもしかたないところがある。法案が例示している行為(「つきまとい、待ち伏せし、進路に立ちふさがり、住居、勤務先、学校その他その通常所在する場所の付近において見張りをし、又はこれらの場所に押し掛けること」)は、「報道」という大義名分さえなければ立派に犯罪を構成しかねないものである。しかもこうした行為が起こる背景にはメディアの横並び意識や安易にインタビューに頼る報道姿勢があるのであって、そうした点への反省抜きに法案を批判しても説得力を欠くというものである。確かに日本政府、与党自民党の“ふだんの行い”が悪いから信用できない、という気持ちはよくわかる。第4号は「政治家・官僚に関する報道の規制」を狙ってるのだとか、第2項はわいせつ表現や暴力表現など、要するに道徳保守派が嫌う表現の規制に使われるのじゃないか(なにしろ改憲案に「表現の自由」の規制を盛り込もうとする連中だし)、とか。しかし第4号に関して言えば、報道機関への適用を除外せずとも公人への取材を適用対象外にしておけば影響を受けるのはワイドショーであって真っ当な報道番組ではない。「インタビュー採り」に依存する報道手法が変わらない限り、この問題は今後も繰り返し蒸し返されることだろう。

第2号が対象としているのは第3条第1項第2号に該当する言動、すなわち「特定の者に対し、その者の有する人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動」および「特定の者に対し、職務上の地位を利用し、その者の意に反してする性的な言動」のうち「相手方を畏怖させ、困惑させ、又は著しく不快にさせるもの」である。前者のなかの「人種等」は「人種、民族、信条、性別、社会的身分、門地、障害、疾病又は性的指向」を指すと第2条で規定されている。いわゆる差別発言とセクシャル・ハラスメントが対象になっていると考えればよい。前回も述べたように、これは「人種差別等撤廃条約」の批准にともなって国連の委員会からも関連する立法が求められていたものである。海外にはすでに類似の(あるいはより強力な)立法の実績があり、もっとも有名なのがホロコーストを否定する発言を禁じたドイツの例(ツンデルがカナダから強制送還されたものこのため)ということになる。
自由な社会は、その自由な社会を破壊しようとする“自由”を内包してしまうという原理的な困難を抱えている。自由の実現にとって障害となる差別を自らの信条とする“自由”はどう扱われるべきか? これは公安警察と同様、自由な社会にとっての極限的な状況に関わる問題であり、非常に繊細な取り扱いを必要とするだろう。テロや差別的言動を野放しにしていれば自由な社会は崩壊してしまうが、それらを規制する手段が肥大しても(大統領を批判するとFBIがやって来たり、反戦ビラをまくと逮捕されたりといった具合に)また自由な社会は崩壊してしまう。
おそらくヨーロッパの市民社会には、こうした微妙な法をうまく運用してゆくだけの自信があり、人権擁護法案に反対している日本の自由主義者にはそうした自信がない、ということなのだろう(2チャンネルでの「嫌韓」「嫌中」発言という生き甲斐を奪われるのを恐れている連中は論外として)。この法案がそうした危惧にはもっともなところもある。第2条の規定のうち人種、民族、性別、門地、障害、疾病の一部)、性的指向についてはそれに該当するかどうかが客観的に規定可能であり、しかも個人の選択によることがらではないという意味で差別性が明らかなので比較的問題は少ないと思われるが、「信条」と「疾病」の一部は恣意的な運用を許す恐れをはらむ。例えば当ブログでも「ロッキード裁判=暗黒裁判」論者や「ロッキード事件=陰謀」論者を中心に、特定の“信条”を持つ人間をバカ呼ばわりしているわけである(もちろん、「バカ」などという言葉を使わずに議論ができればそれが一番いいのだが、あまりにもバカなことを書いているのをみながら「バカ」と言わないのはなかなかフラストレーションがたまる)。どこまでが「批判」でどこからが「侮辱」になるのかが曖昧である以上、この条項が特定の思想への批判を封じるために濫用されないという絶対的な保証はない。また第3条1項が「特定の者」に対する言動を対象としているのに対し、第2項は差別的取り扱いを助長する行為を対象としており、これを悪用すれば創作表現にも網をかぶせることができなくはない。(他方、この法案は差別的言動に対し刑事罰を科すものではないという意味で、国際水準からすればむしろ「弱い」法であるという面もある。)

以上のように(またここでは論じなかった人権委員会の位置付けなども含めて)問題の多い法案であることは確かだが、差別表現に関する立法は(1)事実問題として「人種差別等撤廃条約」を批准した以上、不可避であるし、また(2)自由な社会の根幹に関わる問題として、シビアに意識しておくべきことでもある。より濫用されにくい対案を示し、それをうまくハンドリングするだけの政治的成熟度を目指すのが理想的なのだが…。


Posted: Sun - March 13, 2005 at 02:11 PM          

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