(1)出発点
生徒にとって高校時代とは、16〜18歳の疾風怒濤の最中を生きる時間です。そんな彼らには、彼らの心を揺さぶるような文章をぜひ読ませてやりたいものです。
私にとって幸福な経験だったのは、茨木のり子『生まれて』(筑摩書房 国語1)を新1年生と読んだ時です。私も教師1年生、彼らも高校1年生。何か響き合うものがあったのでしょうか。そこに紹介されていた谷川俊太郎の詩集を探し求めたという生徒を複数名知っています。私もこの教材のおかげで、それから3年ほど詩歌の研究に没頭しました。
いい文章に出会うと生徒の態度が変わってきます。こちらの説明に脇見もせずに聞き入り、まっすぐな純真な目で見返してきます。そんなときの国語の教室は一種独特の雰囲気があります。教室の中だけ別の時間が流れているようです。
そのような良質な文章をたくさん読ませたいと思いますが、どんなによい文章でも生徒の現状と乖離したものでは魅力が半減以下になってしまうでしょう。生徒の身の丈に合った、しかも生徒に自分自身を見つめさせ、自分の人生を考えるような文章が欲しいものです。でも、そんな文章はいったいどこにあるのでしょうか?自分自身の高校生時代のことを思い出してみましょう。私たちは何を思い、何を考えて過ごしていたでしょうか。私の場合は進路のこと、友人のこともありますが、何よりも恋愛のこと、性のことに悩んでいたようです。恋愛に憧れ、恋愛に悩み苦しんでいたのが私の高校3年間であったかも知れません。ですから、そのころに小説を読むことを覚えた私は、良質な恋愛小説を読みたいと切実に願いました。その頃出会った武者小路実篤『愛と死』からは強烈な印象を受けました。今読み返したらきっと歯が浮くような他愛もないストーリー展開ですが、高校生の私は幸福の絶頂から悲嘆のどん底へたたき落とされる感覚にしばし呆然となりました。
ただ、現代の高校生に自分が高校生だった頃を直接当てはまることは厳に慎むべきです。私たちは現代の高校生が興味を引かれるようなものを示さなければなりません。
ともかくも、進路について、友人関係について、恋愛について、性について、率直に書かれている文章を自主教材として生徒に示すことはもっと積極的になされるべきだと思います。
例えば、ベストセラーとなった『五体不満足』を国語の教室で読ませてみてはどうでしょうか。書名を知っていても実際に読んだことはないという生徒が、きっと意外に多いと思います。また、井上路望さんの『十七歳』や詩集『十七歳プラス1』なども生徒の関心を引くのではないでしょうか。等身大の自分に近い人の文章を、生徒たちは欲していると思います。(2)生徒自身の文章の活用
上記に書いたことがもし正しいならば、私たちはもっと身近に生徒と等身大の人物の文章を持っています。そう、生徒自身が書いた作文です。
さまざまな機会に生徒に書かせた作文を私たちはどのように処理しているでしょうか。私自身は、ほとんど思いつきで文章を書かせたり、自習課題として新聞記事を読ませた感想を書かせたりしていました。そしてそれらは集めた後に教務室の机の脇に山積みされ、学期の終わりに簡単に5段階評価して学期成績に加味し、学年末にまとめて捨てていました(良心の呵責に耐えて、「時間がなかったんだ」と自分で自分を納得させながら)。
中には生徒の文章には全て目を通して朱を入れて返却している先生もいらっしゃるかも知れません。それは私の理想の教師像の一つです。でも、それは生徒個人と教師の1対1の関係の中だけで終息してしまう出来事です。生徒は教師には認められても、友人がどんなことを書いているかを知ることはできません。
あるいは、生徒の文章のいくつかを印刷してクラスに配布しているという先生もおられるかも知れません。そこでは、生徒の意見はクラス全体に知らされ、「仲間の中にこんなことを考えている人もいるんだ」という驚きをクラスの中に起こすことができているかも知れません。私の提案はさらに一歩進んで、生徒の驚きを回収して再びクラスの中に投げ返そうとするものです。
生徒は、「仲間の中にこんなことを考えている人もいるんだ」という驚きを持ちます。その驚きを文章化することによって自分自身の感覚をとらえ、自分の考えを明確化し、結果として自分を見つめ直させます。さらにその文章を回収し、クラス全員に提示することによって、1人のクラスメイトの文章に他の人たちは何を考え、何を感じたかを全員で検証することができます。その時、彼らは同じものを見ていても違ったものの見方・考え方があるんだということを、実に身近な材料を通して知ることになるでしょう。自分自身を見つめた彼らは、この時他人を見つめる目を持つことになります。自分を見つめ、他人を見つめることを知った彼らが、次は自分自身の人生や社会へと目を向けてくれることを期待したいところです。(3)(ちょっと)具体的な展開案(注1)
ウ ある小説・新聞記事等を読ませた後、その感想文を書かせる。
エ 感想文のいくつかを匿名にしてプリントにする(ワープロで打つ必要があるかも知れない)。
オ 生徒に読ませて、共感したもの・反論したいものを選んで、意見文を書かせる。
名前を示して全員分載せると連絡しておく。
カ 意見が多く集まった文章の意見文をプリントし、生徒に読ませる。
キ 意見を寄せた生徒に自分の考えを話させ、その意見に対してクラス全体で討論する。
ク 元の文章の作者を名乗らせ、意見を発表させる。(4)評価の視点
1 生徒が書いた元の文章の真意を一人一人が正確に読み取ったか。
2 意見文を書くために使った論理立てが適切なものか。
3 討論の際に活発に意見を発表したか。たぶんに理想的観測を多く含んだ展開案と評価の視点となったかも知れません。あるいはここまでできなくても、クラスメイトの書いた文章をクラス全員で考えて見るという機会を設けるだけでもいいと思います。クラスメイトの意外な面を発見する、それがこの授業案の主眼です。
(5)同様な取り組みの紹介
同様の取り組みとして、「リレー物語 回路をひらく2」(注2)の実践があげられます。クラスを6人くらいのグループに分け、生徒各人が物語の書き出しを考え、次の生徒はその続きを書き加え、それを繰り返して最初の生徒の所に戻ってくると、全体の流れを見て結びの文を書いてタイトルをつける、というものです。
この実践を行うと、「バトンタッチの途中から、やがて教室は明るい笑いの場と化してくる。物語がどう展開していくのか早く読みたいと前の人をせっつく姿があちこちで出てくる。……いままであんなに嫌っていたのに、自分の文章を他の人に手渡し読ませているのである。」(上記より引用)という姿が教室で現れてくるそうです。自分の書いた文章が自分の中だけでなく、また教師との間でもなく、クラス全体の中で行き来する。その中で生徒たちは自分がクラスメイトに認められる喜びを味わい、自分を見つめ直し、友人を見つめ直すことができます。これは連歌の世界や連句の世界(=座)にも似た、協同作業の中に自分がいるという感覚を味わうことです。座においては仲間との協力も大切ですが、その中で個性を発揮することが不可欠です。生徒をこのような空間に引き込むことができたら、真の個性とは何であるかをも彼らに認識させられるかも知れません。さらに同様のものに、岡山県立鴨方高校の妹尾和弘先生という方がされている国語通信『今ここで』の実践があげられます。
「授業の初め、5分から10分くらいを使って、生徒は、「いま、自分が思っていること」を自由に書く。文体もテーマも量もすべて生徒の思いのまま。書かれたものの中から、いくつかを国語通信『今ここで』(B4判、表または表裏両面に印刷)として発行する。生徒はそれを読む。そしてまた書く。」(注3)という実践です。当初は表現指導の一つとして始められたそうですが、その書かれた内容が生徒の心を動かし、衝撃と感動と共感を呼んでいるそうです。「おそらく『今ここで』が強く支持されたのは、同時代を生きる者の“生の声”がそこにあったからであろう。」とも書かれています。(6)まとめ
一見仲の良さそうに見える生徒たち。しかし彼らは意外と友人たちのことを知りません。腹を割った話などしたことがなく、友人関係を維持するために気を張っている姿さえ見受けられます。携帯電話があれほど若者たちに不可欠のものとなったのは(ちなみに私は携帯電話・PHSを生涯の敵と思っています)、自分たちがどこかにつながっていることを確認するためでもあるのでしょう。そんな彼らに、せめて国語の時間だけでも自分たちの声を聞かせたい。自分が何を思い何を考えているのかをちゃんと発表し、それを受け止める場所を提供したい。そんな願いを実現する可能性を持っているということが、あるいは国語の教室の大きなアドヴァンテージであるかも知れません。
注及び参考文献
注1 この展開案は平成12年度発表予定の当教育センターにおける実践研究での実践を無意識ながら参考にしている。
注2 『国語通信』(1999 No.4冬号 筑摩書房)所収の『リレー物語 回路をひらく2』服部左右一
注3 『続朝の読書が奇跡を生んだ』(林公+高文研編集部編)所収の『今、ここで−「朝の10分間読書」との出会い』妹尾和弘
