まず押さえなければならないのは、「総合的な学習の時間」とは教科の時間ではない、ということです。
「総合的な学習の時間」では、
1 生徒が
2 自分の学びたいものを選び
3 自分で調べ
4 自分で効果的な発表方法を選んで発表する
という形がベストだと考えます。その活動の中で、生徒は教科で培った力を総合的に働かせて、課題の解決に進むことになります。「総合的な学習の時間」と「教科」との違いは、上記の2にあります。すなわち、学ぼうとする対象を生徒自身が選ぶ、ことです。
教科でも上記の1,3,4の活動は行われており、今後はさらに積極的に取り入れられていくべきでしょう。しかし、それらの活動は教科における目的を達成するために仕掛けられていくものです。例えば、ディベートを取り入れる場合は、音声言語の力を身につけさせよう、論理的な思考力・表現力をつけさせよう、などなどの国語科としての目的があり、その実現のために選ばれるわけです。あくまで目的は、教科の学力を獲得することにあります。
それに対し、「総合的な学習の時間」はその目的を生徒自身が選択するという点に意味があります。何を学んでいくかは生徒の興味・関心に基づくものです。だからこそ生徒自身の主体的な取り組みが期待できるわけです。
「総合的な学習の時間」に対する様々な憶測・誤解等(実施する際の時数の取り扱いもふくめて)は、それを教科の一つと考えてしまうことに原因があると思っています。だからこそ、指導要領の中でもそれは「総則」に位置づけられているのです
朝の読書と「総合的な学習の時間」との間には多くの共通点があります。
朝の読書の4原則
1 みんなでやる
2 毎日やる
3 好きな本でよい
4 ただ読むだけ
の1〜3は「総合的な学習の時間」にそのまま当てはめて良いと思います。1 みんなでやる、は当然のことです。自分の課題を自分で追求するというしんどい作業は、仲間がいてこそ続けられるものです。
2 毎日やる、もそうです。長期休業中の前にまとめ取りするということがよく言われますが、私は週時程に置くべきだと思います。自分の課題の解決のために自分で調べるという作業は、長い期間が保証されるべきです。数週間でやらされたら、おざなりの資料集めしかできません。
3 好きな本でよい、は先に述べたことそのものです。生徒が自分の興味・関心に基づいて学習を進めるのです。
というわけで、共通点が多くありますが、ただ一つ、明らかに違う点があります。それが「4 ただ読むだけでよい」です。
朝の読書の命は「ただ読むだけでよい」にあると考えています。これこそは評価を求めない教育活動です。
教師にはなかなか心を開かない生徒でも保健室の養護教諭には心を開くという現象は、養護教諭が評価をしない先生だからです。それほど評価という行為は、生徒の心を縛っています。
朝の読書は評価をしないという点で、この養護教諭が果たしている役割を担うことができると思います。また、評価をしないからこそ、生徒は自分のペースで、じっくりゆっくり自分の心を耕し、成長させることができます。林氏も指摘しておられることですが、こうした活動は現在の教育の盲点です。しかし、非常に必要なことだと思います。
しかし、「総合的な学習の時間」では評価をするのです。たとえそれが所見のみであるとはいえ、評価は評価です。教師は所見を書くために生徒の活動を点検しなければなりません。
私は、「総合的な学習の時間」が評価を求めている以上、朝の読書をもってそれに置き換えることは絶対にできない、と考えます。評価を求める「朝の読書」は、本来の朝の読書とは全く違うものです。
以上から、私の考えは、「総合的な学習の時間」の一環として朝の読書を取り入れるべきではない、というものです。
文部科学省が朝の読書を教育課程外の活動としてとらえている、ということは、朝の読書の本質をきちんと踏まえた見方だと思います。
教育課程には全て単位が伴います。LHRですら単位があります。ですから、LHRを多く欠席した生徒には何らかの形で補講をしているという実態があります。単位を与えるというためには、必ず評価があるし、そのためには強制ということが伴います。そのいずれも、朝の読書には全く当てはまらないものです。朝の読書は教育課程外での教育活動なのです。
したがって、学校5日制において朝の一斉読書の時間が取りづらくなるという問題については、「朝の読書の王道を貫く以外にない」というのが私の考えです。
5日制に伴って教科時数の確保(55分授業6時限とか65分授業5時限とか)が話題になっていますが、それは教育課程内のことです。その教育課程内での目的と教育課程外である朝の読書との目的とは全く異なるものです。私は、目的の異なるものを同一の俎上に上げるべきではない、と考えます。
そこで、方法としては「朝の読書の王道を貫く以外にない」と思います。つまり、朝の読書の意義を教職員全体に説いて、1日の時程以外に時間を取ってもらう、ということです。本当に朝の読書の意義を理解してくれるのなら、1日の授業開始・終了の時間が多少遅くなるという犠牲を払っても、朝の読書の効果を求めるだろうと思います。それに、たぶん小・中学校ではそうした方向で行くだろうという予感を持ちます。
それがかなわないのなら、「できるところから」の通り、自分の授業内で、あるいは学年で地道に行う、ということでも仕方がない、というか構わない、と思います。
「数学に王道なし」と言ったのはピタゴラスでしたか? 朝の読書もまさにその通りですし、実は地道な取り組みこそが、朝の読書の「王道」なのだろうと考えています。
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