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ハリー・ポッターの原書を読んでいる。英語の勉強を兼ねての挑戦である。ようやくその第1巻を、朝霞市より帰途に着く新幹線の中で読み終えた。
日本語版を2回読み、映画を2回観ているので、第1巻の内容はかなり細部にまで覚えている。そのおかげで、チンプンカンプンの単語もあまり気にすることなく、とにかくも読み終えた。これは、読み終えることが目的の読書だから。目的を達成できて良かった。
しかし、これから第2巻〜第4巻まで読み進めようと計画しているのだが、待望の第5巻が出版される日までに読み終えることができるのだろうか。
評価 ○○○○○ 2003.3.21読了
いやぁ、長い間この本に関わっていたものだ。昨年の春頃から読み始め、ここで提唱されている三色ボールペン方式に感銘を受け、自分も三色ボールペンを2本買い込んで実践した。そして、この本で三色ボールペン方式を練習しようとして読み進めていた。しかし、私はまだ十分にこの方式に慣れなかった。そのため、線を引きながらこの本を読むことに億劫になり、ずっと投げ出したままにしていた。今日、ようやく読み終えたというわけだ。
私にとって難しかったのは、赤を引くことだ。赤は最重要な箇所に引くために使う。その、最重要箇所がどこかを的確に見抜く力が、まだ自分には備わっていないと感じていた。青や緑はよく引ける。しかし、赤はなかなか難しい。他の本を読むときには、もう自然と三色ボールペンを手に持って、線を引きながら読んでいる。それでも赤を引くことはまれだ。
そう思いながらこの本を最後まで読み進めてみたら、こんな箇所があった。
肝心なことは、線を引くという行為をめぐって「迷う」ことだ。そして「賭ける」ことだ。
三色ボールペンを引いた箇所には、迷いと決意の集積が込められている。その迷いと思考の量が多いほど、その箇所は愛おしくなる。「肝に銘じる」という言葉があるが、そうした気持ちで本に線を刻みつけることができたとすれば、その読書の時間は、人生の喜びになる。(p190〜191)
つまり、三色ボールペンで本に線を引くということは、思考しながら本を読むということだ。よってそのエネルギーは、だらだらと本を読んでいるときの数倍のエネルギーを必要とする。そして、どこが赤にふさわしく、どこが青のままでいいかと悩むことが思考することであり、それを自分なりに判断して本に刻みつけることが「賭ける」ということなのだろう。そういう自身の精神の歩みを本に残すことによって、読書という行為を意味あるものにしようとするのだ。ようやく、齋藤孝氏の言わんとするところが分かってきたような気がする。
評価 ○○○○○ 2003.1.8読了
この年末年始は、ハリー・ポッターの第3巻を読んでいた。今回も大変楽しめた。前半はシリウス・ブラックがハリーを狙っているというサスペンスがゆっくりと進み、中盤はクィディッチ優勝杯獲得と並行して進むバックビークの裁判が明暗を織りなしながら展開し、そして後半はシリウス・ブラックとロンのペットのスキャバーズの正体と、ルーピン先生、スネイプ先生との関係などが明らかになって大きな盛り上がりを見せ、一瞬の希望が無惨にうち砕かれた後の意外な解決へと進む。坂を転げ落ちるような後半の急展開に、ここの部分だけは本を置く気がせずに一挙に読み終えた。本当にストーリー展開が巧みだ。
その中で、また今後の物語の展開を暗示する部分があった。
「また会おう」ブラックが言った。「君は−−ほんとうに、お父さんの子だ。ハリー……」(p542)
「これなもっとも深遠で不可解な魔法じゃよ。ハリー、わしを信じるがよい……いつか必ず、ペティグリューの命を助けてほんとうによかったと思う日が来るじゃろう」(p558)
「愛する人が死んだとき、その人は永久に我々のそばを離れると、そう思うかね? 大変な状況にあるとき、いつにもまして鮮明に、その人たちのことを思い出しはせんかね? 君の父君は、君の中に生きておられるのじゃ、ハリー。そして、君がほんとうに父親を必要とするときに、もっともはっきりとその姿を顕すのじゃ。そうでなければ、どうして君が、あの守護霊(パトローナス)を創り出すことができたじゃろう? プロングズは昨夜、再び駆けつけてきたのじゃ」(同上)
とても泣かせる部分である。これを読み聞かせしていたら、間違いなく涙が出てくるだろう。作者ローリングの、親子に対する考えが表れている。
父と子の関係か……、私も自分の子どもをじっくり見ようかな。最近、関係が損なわれてきたものなぁ。
評価 ○○○○○ 2003.1.7読了
